Homework5


■設問1
筆者の言う゛やさしさ″と「やさしさ」のちがいについて、200字以内で説明しなさい。


■設問2
筆者の言う゛やさしい″人間関係について、あなたはどのように考えますか。学校や家庭など自分の生活体験を交えて、500字以内で論じなさい。


つい何年か前に、若者の間で風呂上がりにベビー・オイルをつけるのが流行しました。「赤ちやんにイイものは、私たちにもイイ」「僕たちの肌は意外とデリケート」と若者向けの雑誌も推奨していたものです。その後、ふと気がついてみると、胃にやさしい食べ物、お肌にやさしい石鹸、足にやさしい靴……とさまざまなやさしいモノが街にあふれています。
 今や体への゛やさしさ″は「ヘルシー」というキャッチ・フレーズのもと、世代を超えた常識となっています。
ヒトに対するやさしさばかりではありません。衣服にやさしい洗剤や洗濯機、車にやさしいエンジン・オイル添加剤……。ここまで来れば、人々が地球や環境にやさしい暮らしをと心がけるのもなるほどとうなずけます。人どうしのつき合いにも、“やさしさ”は行きわたりました。厳しい親、こわい教師、叱る上司は評判がよくありません。専門家たちは「叱るな。褒めろ。 それで駄目なら、やさしく注意せよ」と教えています。やさしい親、やさしい教師、やさしい上司に人気があるのです。
 今や“やさしさ”は僕たちの生活の隅々にまで行きわたっています。もしかすると“やさしさ”は現代の“時代の気分”なのかもしれません。
 どうして“やさしさ”がこれほどまでに拡がり尊重されるようになったのでしょうか? いや、その前に、かくもさまざまな場面で語られる゛やさしさ″とはいったい、何なのでしょう?
 僕がこうした疑問を持つようになったのは、近年、面接室の中で「行き過ぎたやさしさ」とでも呼びうるようなことを経験することが増えてきたからです。例を挙げてみましょう。
 ひとりの少女は「私たちのやさしさってのはねえ」と前置きをして、次のように話しました。
 「この間、学校へ行く時、ふだんなら坐れないのに、突然、前の席が空いて坐れちゃったのね。そしたら次の次(の駅)ぐらいの時、オジイさんが私の前に立ってェ、私、立ったげようかなって思ったけど、最近の年寄りって元気な人、多いじゃないですか。ウチのおばあちゃんなんかも私たち孫以外の人がオバアさんなんて言ったら、もうプンプンだからァ、このオジイさんも年寄り扱いしたら気を悪くするかなあ、なんて考えてたらァ、立つのやめた方がいいか、なんて考えてェ、寝たふりしちゃったの」
 僕は精神科医ですから、患者からどんな話を聞いても驚かないつもりでしたが、正直言って、この高校生の言葉には虚をつかれる思いがしました。実は僕自身、電車で老人に席を譲ろうとして「いや結構!」と冷たく拒絶されたことがあったからです。僕は難しい世の中になったものだぐらいにしか考えなかったのですが、この少女によれば、席を譲らないのも“やさしさ”だと言うのです。相手を年寄り扱いにしないことになるからです。それでは、席を譲ろうとした僕はやさしくなかったことになるのでしょうか? 少女の返事は
「そりゃそうよ。相手が(席を)空けてくれって言ったら(その時に)空けてあげればいいんだから」
 理屈は分かりましたが、もちろん僕は釈然としません。席を譲らなかった自分を正当化しようとしているだけのような気がするのです。少女が結局は「寝たふりをしちゃった」のがその証拠ではないでしょうか?
 「ちがう、ちがう。寝たふりしたのはねえ、私たちのやさしさ分かんない大人とかが、『この子、席も立たないで』みたいな目つきでジロジロ見るからなのよ」
 僕はつくづくこうした“やさしさ”とは何なのかと考えこんでしまいました。

 昔から「目は口ほどに物を言い」と言われますが、その目からあふれる出る涙もじつに雄弁です。僕たちは人の涙を見ると平穏ではいられません。つい、泣いている人の気持を察し、同情しようとしてしまいます。人の悲しみや悔しさに自分も心をゆすられること。それが人間関係におけるやさしさの原点です。
 ここまでは昔も今も違いがありません。変ったのはこれから先のことです。以前は、人の心の痛みがわが事のように思えることは「良い」ことでした。お互いの気持がひとつとなり、一体感が得られたのです。したがって、人は「やさしい人」の前でなら、心おきなく涙することができました。「やさしい人」は涙を流すことを受け容れてくれたのです。(もちろん、皆が皆、「おもいっきり泣きなさい」と言ってくれたわけではありません。心を鬼にして「泣くな!」と僕たちを叱りつける人もいました。しかし、そういう人も、泣く者の気持を察し同情してくれてはいたのです。だから、僕たちは、そういう人も本当は「やさしい」のだと知っていました)
 旧来の語法では、人間関係における「やさしさ」とは、相手が自分の気持を察してくれ、それをわが事のように受け容れてくれる時に感じられるものでした。自分が「やさしい」気持になれるのも、自分が相手と同じ心持になった時のことでした。いずれの場合も「やさしさ」が双方にとって心地よいのは、自分と他人の気持のずれがなくなり、一体感が得られるからでした。
 しかし、時代は変わりました。“やさしい人”ほど、人の悲しみや悔しさに動揺してしまう。そんなふうに認識されるようになりました。“やさしい人”は、感受性の鋭い人です。弱い、と言ってもよいかもしれません。他人の痛みが容易に伝染してしまうのです。涙は、ちょうど風邪引きの人の鼻水や唾のように、悲しみや悔しさを人にうつします。“やさしい人”ほど、人の涙を避けるようになりました。
 事情は泣く側も同じです。自分が不用意に流した涙は、人を動揺させてしまいます。相手が“やさしい”場合には、自分の心の痛みをうつしてしまいます。“やさしい人”にとって自分のせいで他人を悲しませることなど耐えられることではありません。
 かくして、同じ「やさしさ」と言っても、まるで違うことになってしまいました。旧来の「やさしさ」が〈涙歓迎〉なら、新しい“やさしさ”は〈涙お断り〉です。一方が「熱い思い」を好む時、他方はそれが苦手です。
 新しい“やさしさ”を理解するためには、旧来の「やさしさ」をいったんは棚上げにしなくてはなりません。同じ言葉を用いながら二つのやさしさは、それほど異なっているのです。
 新しい“やさしさ”とは、単なる「気持」といった漫然としたものではありません。それどころか、言葉で「気持」を伝えたり伝えられたりすることは御法度でさえあるのです。とかく「気持」偏重だった古い「やさしさ」にこだわっていては理解できない。

 一言で言ってしまうと、
 〈“やさしさ”とは人づき合いの技能〉です。
 人々が理想の恋人、配偶者、親、子、上司、同僚、教師、友人……を尋ねられて、“やさしい人”と決まり文句のように答えるのも当り前のことです。上手に自分とつき合ってくれる。それ以上、人に望むことがあるでしょうか。
 “やさしさ”が理想であればこそ、人も自分も“やさしい人”であろうとします。ただ、人づき合いとは相手のあることですから、“やさしく”するのがなかなか難しい場合もあります。電車の中で老人に席を譲ろうとしても、相手が年寄り扱いされたと気分を害するかもしれません。“やさしく”するつもりが、かえって“やさしくない”ことになりかねないのです。そこで、人々は、先に紹介した女子高校生のように、席を譲るのにも慎重になってしまいます。さもなくば、降りるふりをして隣りの車両へ移るしかありません。老人は、坐りたかったのなら坐るでしょう。感謝の言葉は返ってきませんが、自分が“やさしく”したことに変りはないのです。
 もし、相手が親切をしてほしいと明確に意思表示をしてくれたら“やさしく”する方はずっと楽です。「相手が(席を)空けてくれって言ったら、空けてあげればいい」のです。福祉施設などで「ボランティア募集」の広告を出してくれれば喜んで応じるのに。そう思っている若者もたくさんいます。受け身なのではなくて慎重なのです。
 人づき合いの技能としての“やさしさ”は、人が(自分も相手も)皆、傷つきやすい、ということを前提にしています。不用意に「親切そ−なこと」をして相手を傷つけるのは“やさしさ”にもとります。お互いに相手を傷つけないように「気づかい」をすること。それが“やさしい人”どうしの“やさしい関係”なのです。
(出典大平健『やさしさの精神病理』1995年岩波書店。ただし一部を改変して用いた。)

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