どんな時代でも、人は同じような感慨を抱くものらしい。そうしたものの一つに、「最近の若い奴は」というのがある。どうも、一定の年齢に達すると、この言葉がいいたくなるようだ。最近、同年配の友人と会う度に、若い人に手を焼いているという話が出る。ある役所に勤めている人から、こんな話を聞いた。 その課で会議を行い、その内容を部内に回すために、部下に議事録を取りまとめるように指示した。要点をまとめるだけの仕事なので、この春入社したばかりの新人に書かせた。やり方はわかるかと間くと、大丈夫ですと答えた。ほぼ一日かかって仕上げ、彼のところに持ってさた。彼はそれを読んで驚いた。要点をまとめるどころか、さっぱり要領を得ないものだった。 「誰かにやり方を間いたのか?」 「自分で考えて書きました」 「これじや内容がわかりにくいんだよ」 「そうですか」 彼は部下の前で、ほんの五分ほどで書いてみせた。 「こういうふうに書き直してくれよ。この方がわかりやすいだろ」 「たしかにわかりやすいですけど、それじや個性がありませんね」 友人はその話をして大きな溜め息をついた。 「すべてがこの調子なんだよ。何か、こう、話が通じないって気がするんだよ。わかるか、できるかって聞くと、はいできますと答えるんだよな。やらしてみると、まるでダメ。文句をいうと、誰も教えてくれなかったからというんだ。自分からは絶対にやり方を聞こうとはしないんだけど。黙ってすわっていれば先輩たちが教えにきてくれると思っているのかね。一流の大学を出て、優秀な成績で合格した奴だよ。わけがわからんよ」 似たような話は幾つもある。わたしのように自宅でする仕事ならいいが、毎日の仕事や生活の相棒である。わからんと嘆くだけですむ話ではない。 若者の方では相棒とは思わず、教師か家庭教師のたぐいと区別がついていないのかもしれない。それまでその若者の身の回りにいた人たちは、すべて彼の気持ちを思いやり、彼のために懸命に何かをしてくれる親しい人たちだったのだろう。人に何かを相談する必要もなかったのかもしれない。教えられたことを従順にやりさえすれば、人はほめてくれるものと思っているのかもしれない。 きっと友人が途方にくれているように、部下の若者も新しい世界で途方にくれているのだろう。一日も早く仕事を覚えることや職場のルールに慣れようとすることへの懸命さは昔と多少違うようだが、それでもいつかは慣れてくるはずだ。若い人も、いろいろなことに我慢をしながら、自分なりの楽しみや自信を得て、だんだん年をとっていく。年長者たちの根気強さやしぶとさに敬意を表するようになると、ある日「近頃の若い奴は」と呟くようになるのだろう。 なぜ、年をとると若い人たちが気に障るようになるのか。若さを誇る傍着無人さが疎ましくなり、自分勝手な若者に邪魔されないで暮らしたいと思うようになる。若者と若くない者がいつでもうまく溶け込めないのは、若者の好きな『個性』の部分にあると思う。個性にこだわり、自分らしさにこだわりたいと口癖のようにいうけれど、みんな揃って同じことをいうのは、個性のないことを吹聴しているようなものだ。 何もないから自分の若さと好き嫌いだけを判断の基準にしている。自分のことを客観的に考える力を持ち、自分なりに大切なものが決まってくれば、それだけで十分に個性的になる。人と違うことをし、目立つことをするのが個性とはいえない。若者にはどんな可能性もあるけれど、だから偉いと考えるのは自由な発想ではなく、あまりにも単純な思い込みではないだろうか。もちろん、本当に個性的な若者もいるし、わがままなだけの中高年者も少なからずいるが。 こんな話もある。サラダ記念日がベストセラーになっている時、ある短歌結社の同人との話で俵万智の話題になった。 「わたしは読んだことがないけど、あんな年で短歌が詠めるわけがないでしょう。歌は奥が深いものなんだから。ベテランや長老がたくさんいるし、わたしなんかまだ若手なんだから」 当人の年齢は四十五歳。「近頃の若い奴は」という言葉の裏には、若さに対する妬みやいつまでも若くありたいという願望が秘められているようだ。若い人は本能的にそういった部分を感じとり、反発するのだろう。そういえば、わたしももう四十歳をすぎてしまった。 (増田みず子の文章による)
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