Dr. Woodbe の法学基礎用語集
 正義の概念

正義への懐疑
 法にとって正義は避けて通ることのできない価値である。自らを不正である、と主張する法は存在しない。「それは正義だから行うべきだ」あるいは「それは不正であるから行ってはいけない」と法は命令する。
 だが、正義とは一体何を指し示すのか、その中身は必ずしも明らかではない。一方で、「普遍的な正義など存在せず、個々人が自分に都合の良いことを『正義』として主張するだけだ」という主張もしばしば目にする。「正義とは強者の利益である」などとうそぶく人も少なくない。
だが、果たしてそうだろうか。正義に対して、そのような批判を行う者も、実は「現状は正義にかなっていない」あるいは「今の『正義』は実は不正である」ということを意味しているだけではないだろうか?

正義には皆の了解がある
 本来、何が正義であるかについての皆の了解が成立していなければ、「不正である」と非難したところで、意味がないはずである。にもかかわらず、我々は「不正である」という非難が無意味とは考えていないし、むしろどんな相手に対しても非難として有効だと思っている。
 このことは、我々が「正義」が何であるかについては多様な考えを持っているにもかかわらず、何が不正であるかについて暗黙のうちに合意していることを示している。つまり、「何が正義でないか」が暗黙に分かっているのだから、「何が正義であるか」の条件の一部は少なくとも分かっているわけだ。

正義をどう定義するか?
 この条件をどう言語で正確に表現するか、という試みが、古代ギリシャ以来絶えず行われてきた。その中でも「各人に彼のものを」とか「等しきものを等しく」という定式化が代表的であり、現在でも広く受け入れられている。しかし、これらの定式化がなぜ妥当なのか。これは法哲学上の難問だが、概ね次のように考えることができる。

歴史的な実践のなかでの定義
 まず、歴史的にこれらの正義概念が法の実際の運用のなかで用いられてきた、という事実が挙げられる。つまり、法を実際に運用した時に、この捉え方が有効だったので、このように正義を考えると良いということになっていったのだ。その意味では正義は法の実践と切り離すことのできない価値なのである。もちろん、これだけでは根拠としては弱い。

エゴイズムの禁止
 更に積極的な理由を示すために、次にこれらの定式化がどんな意義を持つかを考えてみよう。ここではより親しみやすい後者の定式「等しきものを等しく」を例にとろう。確かに、この定式は何が「等しさ」なのかという基準を与えていない。その意味で、どんなものでも「正義」とみなしてよいように見える。例えば、アリストテレスは奴隷は人間とは違うから、奴隷制は正義だと考えていた。だが、そうではない。この命令は法に普遍的な(いつでも誰にでも当てはまる)形式をとらせ、エゴイズムを根本的に禁止するからである。
 このことを理解するためには「総理大臣は税を免除される」という法は可能だが、「小泉純一郎は税を免除される」という、個体を指示する法が不可能であることを見ればよい。「小泉純一郎」という表現は、ある特別な一存在にしか通用せず、他にそれと「等しいもの」が存在しない。したがって、「等しいものを等しく」扱うという定式の前提である「等しいもの」の存在を最初から排除してしまう。これと同様にエゴイズムが基づく「私」という表現も、他にはない「私」のみを指示し、他にそれと「等しい」私があることを否定するから、エゴイズムはこの正義の定義を満たすことができず、排除される。

エゴイズムはどうしていけないか?
 ここで、エゴイズムの何が問題なのかを考えてみよう。エゴイズムによって何かが主張されるとき、その主張の根拠は「私が私であること」に尽き、他に何の理由もない。したがって、他者が何を言おうと「だって、それは私だからだよ」という答えが返って来るばかりだということだ。つまり、エゴイズムは根本的に他人の批判を受け入れず、他者に拘束されることを拒否する。しかし、法はそれを遵守するように、参加するものを拘束するような合意であり、必ずしも自分の理想どおりでない法にも我々は従わなければならない。 つまり、エゴイズムは最初から法を拒否しているのであり、法と決して両立しないのである。こうして、「等しきものを等しく」という定式は少なくともこのようなエゴイズムを根源的に禁ずるという点で、正義概念の表現として適切なのである 。

形式的な正義の有効性
 このような正義概念は「形式的正義」とも呼ばれる。上に述べたとおり、これは一見無内容だが、実は法に普遍的な形式を採ることを要求するという点で、結構役に立つの である。例えば、同じような罪を犯した二人が逮捕され、一方が釈放され、他方が裁判に掛けられた場合、裁判に掛けられた側は「なぜ私だけが裁判に掛けられるのか?」と、この正義概念に基づいて非難することができる。最近話題になった秘書給与詐欺事件についても、民主党の議員ばかりが(あるいは自民党の議員ばかりが)ねらい打ちされ、他党の議員は責任を問われないと言うのであれば、それはただちに不正である、と非難を受けるだろう。

実質的な「正義」
 しかし、これだけでは「何が正義か?」を決めるのには、十分ではない。なぜなら、「等しきものを等しく」の最初の「等しさ」が何かがハッキリしないと、実質的に「何が正義か」を決められない場合が多いからである。たとえば、古代社会では「自由人は自由人同士で等しく、奴隷は奴隷同士で等しく」という「正義」が当然であった。また、「白人は白人同士で等しく、黒人は黒人同士で等しく」は、1960年代のアメリカでの「正義」であった。フランス革命だって「人間は皆同じだ」と言いながら、本当は「ブルジョア成年男子に等しく権利を、他の人間は等しく無権利に」という「正義」を打ちたてようとした。政治の歴史はこのような「正義」についての争いの歴史だった、といってもよい。

「正義」に関する二つの立場
 この「正義」(実質的正義)の争いに対する態度は大きく二つに分けることができる。時代と場所とに関わらず普遍的に妥当する「正義」が存在する、という立場とそのようなものは存在せず、ただ個々の状況で主観的に妥当する「正義」しかない、という立場である。

 前者は例えば自然権思想によく表れている。これは、時と場所とに関わらず人は生まれながらに等しく権利を有する、という立場である。後者は「正義」争いは「好み」の争いに過ぎない、という、冒頭でも述べたような、懐疑的・価値相対主義的態度によく表されている。
 この二つの立場の争いについてここで深入りすることはできない。しかし、「正義」の相対性を言い立てながら、同時に「基本的人権」を主張することは不可能であることは注意しておいてもよい。価値相対主義を取る限り、「人権」という脆いものの基礎を如何にして据えるか、あるいは「人権」という概念を捨て去るかという難問に直面せざるをえないのである。反対に、「基本的人権」を認めて相対主義を退けるとしても、なぜそのような「正義」が他の「正義」に優って妥当であるといえるのか、という難問から逃げることはできないのだ。たとえば …

正義の射程
 複雑な人間相互の関係を正義だけではかることは不可能だ。たとえば、貴方と誰かと二人で事業を興し利益を得たとし、二人で利益をどのように分配するかが問題になったとしよう。このとき、もし貴方が相手を愛しており、それゆえに相手に多すぎるほどを与えたとすると、これは「『私』が愛しているから」というエゴイズムによる分配であり正義概念に反する。が、これが「正義に反する」といわれたところで、愛が倫理的に不当だ、ということにはならないだろう。
 だが、そもそも「多すぎる」かどうかの判断はいかにして行われるのだろうか。出資額なり頭割りなりの基準によって「等しきを等しく」扱って決められる公正な分配というものが認められているから、それを上回って相手に与えたときに初めて「多すぎる」といえる。反対に、貴方が相手を憎んでおり、それゆえに公正な分配に比べて「少なすぎる」程度しか相手に与えなければ、それは正義概念に反するし、倫理的非難を受けるだろう。つまり、正義は社会関係における最低限度ラインを示すのであり、それを下回ることを禁ずるが、それを越えて如何に振舞うかには関わらない。従って、法もまた社会関係の最低限度を規律するに留まり、それ以上の道徳主義的干渉を人々に対してなすべきでないことになる。法も正義もこのように、射程の限られた存在だということは、法に携わろうとする者に常に意識されてよい事柄である。


参考文献
 正義論について更に詳しく知りたい、と思う人には『共生の作法』(井上達夫,創文社 現代自由学芸叢書)をお勧めする。ここでは触れられなかった価値相対主義の問題(第1章)やエゴイズムの問題(第2章)について、より詳しく知ることができる。これらの議論をより具体的事例に即して応用した議論の実例として『共生への冒険』(井上達夫ほか 毎日新聞社)も参考になるだろう。


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