Dr. Woodbe の法学基礎用語集
 人権とは何か

人権は万能か?
 「それは人権を侵害しているので誤っている。」という議論をよく耳にする。しかし、どのようなものがなぜ人権として守られるべきなのか、が議論されることは殆どないといってよい。むしろ、「人権」はそのような議論抜きに自分の主張を正当化するためのマジックワードとなっているといってよいだろう。しかし、きちんと人権そのものの基盤について考えを巡らせた事がなければ、人権という概念の妥当性そのものに疑念を突きつける議論に直面した時に、それに応えることは困難なのだ。

自然権という虚構

 「人権の根拠は何か」という問いかけがこのような問題を考える手がかりとなる。よくあるように「人間が生まれながらにして自然にもつ権利」、として人権を考えることは困難である。人権は、それを保護する国家がなければ、殆ど無意味だからだ。
 たとえば、強者による弱者の財産の暴力的強奪は明らかに弱者の「権利」に対する侵害だが、国家という人間の営為の他にそれを妨げるものはない。林檎は「自然に」木から落ちるが、人権は「自然に」は実現しないのだ。実現されない「権利」には何の意味もない。
 だいたい自然が権利を生み出すなら、人間以外の生物にも「生まれながらにして自然にもつ権利」が出てくるが、仮に他の生物に権利を認めるとして、それが人権と全く同じ内容にはならないだろう。だが、もし生物種の差異によって権利の内容に差異が生じうるならば、個体間の差異によっても権利の内容に差異が生じうることを認めざるを得ない。これでは「平等な人権」という観念は不可能であり、ナチスのように、個体間の差異(つまりユダヤ人や障害者であるといったこと)によって権利に差異を認めることになる。「生まれながらにして自然に持つ権利」を素朴に信仰するのは危険なのだ。

幸福のためのルール
 こういった発想に対して、人権を人々の幸福の増大に役立つ一定のルールと見ることができる。スポーツの存在のためにルールが必要であるのと同様に(ルール無きスポーツは乱闘に堕する)、社会を破滅させず存続させる、という人々の幸福の基盤の維持のために、人権というルールが必要だと考えるのである。人権の根拠をこのように、人々の幸福を実現するためのルールとしての価値だと考えるとすれば、次のような二つの対照的な考えが生まれるだろう。「人々の幸福という目的の為に人権は柔軟に状況に応じて設定されるべきだ」という考えと「人権がルールである以上、多少非効率であろうともそれを遵守することに意味がある」という考えである。

人権の範囲を浅く広く考える
 「人々の幸福という目的の為に人権は柔軟に状況に応じて設定されるべきだ」と考えるなら、絶対的な人権というものは認められない。どんな人権であろうとも人々の幸福の増大に邪魔であれば、人権としての地位を失わせなくてはいけないからだ。このように考えると、人権とは、人々の幸福を増大させるための効率的な手段となるだろう。
 だが、現実はそううまくはいかない。社会状況はめまぐるしく変わるから、事前に人権として扱われる可能性のあるものを網羅しておき、具体的な状況に応じてそれらのうちのどれが権利として今認められるべきかを決定しなくてはいけない。これはかなり煩雑な手続きである。しかも、その決定の役割が司法(裁判所)と立法(国会)に委ねられる。
 ところが、この二者が必ずしも信頼できないのだ。裁判官が公平無私で不党不偏であると考えるのはナイーブに過ぎる。それに、裁判官は民主的過程を通じて選ばれているわけではない。では、民主的立法過程に判断をまかせればよいか、といえばそうとも言えない。ナチス体制が完全に民主的な過程を経て成立したことを考えなくてはいけない。
 この状況は、ルールが複雑すぎて審判しかルールを把握しておらず、しかも審判の公正さが疑わしいスポーツに似ている。

人権の範囲を深く狭く考える

 これとは対照的に、「人権がルールである以上、多少非効率であろうともそれを遵守する」という考えは、いわば絶対的な人権とでも言うべきものを認めるものだ。この考えによれば、民主的立法過程によっても(あるいは、民主的立法過程であるがゆえに)変更できないルールとして人権をとらえる。しかも、変更できない、ということから必然的に生じてくる非効率を最小限に抑える為に、人権を深く狭く設定し、いわゆる「権利のインフレ」を回避しなくてはならないと主張するのだ。(例えば、「喫煙権」を絶対的人権としてしまうと、ガソリンスタンドなどの非常に危険な場所でもそれを拒否することができなくなってしまう。)
 このような考え方の下での人権は「切り札としての権利」と呼ばれる。たとえ、それを行使することで当面は他の全ての人間の状況が悪化したとしても、個人に認められなければならない最低条件として人権を考えるのである。現在は社会の幸福が悪化するとしても、最終的にはそのようなルールの存在自体が人々の幸福の増大をもたらす、と考えるのだ。もちろん、この考え方に問題がないわけではない。思想信条の自由や参政権といった、政治的に重要な諸権利が念頭に置かれているので、環境権や禁煙権などの、政治から遠く、周辺的な権利とは結びつきにくいのである。

先立つ議論を知る

 人権という概念に決定的な解答は存在しない。 自分で議論を展開するには、先立つ様々な議論の長所、短所をしっかり認識しておく必要がある。ここでは「自然権」という発想をごくあっさりと退けたが、実際にはそれを支持するもっと精緻な議論も存在する。ただ「切り札としての権利」という考え方は知っておいて損は無い。ドゥウォーキンという法哲学者の提唱になる概念である。もっとも、彼自身の人権の根拠についての考えは上に述べたようなものとは違った独特のものだが(「平等な尊重と配慮を受ける権利」とされる)。詳しくは『権利論?』第11章「どのような権利を我々は有しているか」(ロナルド・ドゥウォーキン、木下毅他訳、木鐸社、2001)を参照して欲しい。

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