1「援助交際」って自己決定していいの?

 第1回は、埼玉県のある女子高校生からもらった質問。こっちも一生懸命考えたから、楽しかった。こういうのって、普通はブログに書くことなのだろうけど、ブログは対多数、こっちは1対1。これぞ、コミュニケーションだね。それではまず、もらったメールから。吉岡が応えます。



 突然のメール失礼します。先生のお書きになった「小論文のトレーニング」(Z会出版)を愛用している高校生です。今まで読んだ小論文の参考書の中でも最高の部類に入ると思います。大変 感謝しております。
 さて、質問なのですが、同書p.69の自己決定権の問題で、補足の主張として「売春」と「臓器売買」がありますが、経済的に問題のない日本の高校生による「援助交際」は自己決定権の問題に引きつけて考えるとき、どういう理由付けができますか?
 大変お忙しいとは思いますが、解説してくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。




質問への回答です。
そう言ってもらえると、筆者としてはうれしいです。

 「援助交際」にはいろいろな意味がありますが、とりあえず売春行為として考えますね。もし、金銭的な必要のために「援助交際」を行わなければならない状況にあるのでしたら、それは「自由」とは言えないのは当然です。たとえば途上国などで、多額の金を稼ぐには「売春行為」くらいしかないという場合です。自分の意思でやっているように見えても、それは他に選択肢がないためですから、「自由」ではないわけです。

 しかし、経済的に不自由がなくて、自分が好きで、あるいは好奇心があって「援助交際」を行うのでしたら、それは基本的に「個人の自由」として許されるでしょう。ただし、「許される」というのは、国家が「援助交際」する個人を罰するべきではない、ということに止まります。また、「援助交際」をしている個人を罰しようとする政治勢力や集団に対して、「罰するのはいけない」と言えることを意味するだけです。

 これは個人が自分の家族に対して「援助交際」していることを禁止できないという意味ではありません。本でも説明したように、社会の原理として「善」を人に強制してはいけないけど、プライベートにはかまいません。とくに親は子供に対して良い方向に教え導く責任があります。だから、たとえば、私に「援助交際」を行っている娘がいたら(私には子供は居ませんが…)、何とかして止めさせようとするでしょう。

 なぜなら、私は「援助交際」が不利益になると判断しているからです。まず、「援助交際」は簡単な手段でたくさんの金が稼げます。これは社会の中で「売春」が一応禁止されていて、需要に比べて供給が少ないという事情に基づきます。しかし、もし「売春」が許されているなら、あっという間に値段は下がります。つまり、このような高い稼ぎは「売春」が禁止されていることを利用しているわけです。

 これって、「売春は自由だ」という主張と矛盾しませんか? 一方で「売春は自由だ」と言いながら、他方で「売春禁止」を利用してもうける。ずるいですよね。こういう「ずるさ」を若いうちから覚えては、ろくなことはないと私は思います。だから、娘がいたら絶対に禁止する。「まともな商売じゃないよ」と言えるわけです。第二に、このようなたやすい稼ぎは、他の仕事に就こうとする意欲を極端に奪います。私は性的ビジネスに関係している人々に偏見はありません。しかし、彼らの共通の特徴は、私の経験によれば「時間・約束を守らない」ということです。守らなくてもすぐにお金が稼げてしまうのですから、努力しなくていい。しかし、約束しても当てには出来ないわけですから、まったく「信用」できない。他の仕事は「信用」で成り立っているわけですから、他の仕事は出来ない。

 以上をまとめると、「援助交際」については「自己決定」の条件を満たす限り、社会的・法的には許されるべきです。禁止してはいけません。しかし、それは私自身が「援助交際」を許容していることを意味しません。私は明確に「援助交際」には反対です。理由は、それを常習すると、この社会を生き抜いていくのに結局不利になるからです。つまり、「援助交際」は許されるべきですが、利益にならないから絶対に止めた方がよいのです。
 こんな感じでどうでしょう、納得できましたか? 

 迅速かつ丁寧なお返事大変ありがとうございました。納得がいきます。やはり、正義を実行するための法とは別ものなのですね。何かで以前、宮台真司氏が援助交際は性の自己決定権だと主張していて、違和感を持っていました。自己決定権は基本的には社会を望ましい方向へ構築するために使う概念であってほしいと思います。その「望ましい」という善までぶれてしまうような‘多様な’社会になってしまったらおしまいですが…。

 「自己決定権」という言い方は、法的にはOKですが、それは何が善であるか、という自己の判断、つまり自己決定の中身については何も言っていない。その意味で「自己決定」だけで倫理や道徳を語るのは問題だと思います。

 自己決定権に関してもうひとつ質問させてください。「小論文を学ぶ」(長尾達也著 山川出版社)(p.185)では、尊厳死でQOLを問題にし始めると、生きるに値しない命と いう社会的基準を誘発し、自殺一般への道が開かれてしまい、QOLの観点から死刑廃> 止とは両立しないと言っています。これに対しての先生のご意見をお聞かせいただけると嬉しいです。

 高校生としては、ずいぶん勉強していますね。感心しました。あなたのようにいろいろ考えたり読んだりする高校生がいるということについて、大人たちももっと認識を深めるべきですね。

 さて、長尾氏の『小論文を学ぶ』は世評は高いのですが、私はあまり評価していません。たしかに良いところもあるのですが、彼の主観が出すぎているし、自分の意見については、十分な根拠が書いてないと思うのです。それに、ちょっと字詰めや表記がビチビチすぎて、読むのがきつくありませんか? その意味で、長尾氏の本をしっかりと読む、ということは相当の苦痛であり、それを克服したあなたは「感心」に値します。

 冗談はさておき、ここでの長尾氏の記述もやや主観的に過ぎますし、説明も不十分です。まずQOLについては、「生きるに値しない生という社会的基準を誘発し」となっていますが、これは「滑り坂の理論」と呼ばれます。つまり、個人に尊厳死を認めると社会的に安楽死を認めることにつながる、というわけです。

 しかし、これは自殺について考えると間違いだと分かります。自殺は罰せられないが、殺人は罰せられる。したがって、自分について認められることが、他人について認められることにつながるとは言えないですよね。したがって「尊厳死でQOLを問題にし始めると、生きるに値しない命という社会的基準を誘発し」ということは、間違い
です。

 次の「自殺一般への道が開かれてしまい」も変です。自殺は法的に悪くありません。しかし、道徳的に考えると悲しむべきことです。生きている人が生きていない方がよい、と思うことですから、人間の存在の意味がないことになる。それを感じると、私も生きる意味がなくなりそうに思う。だから、なるべく止めたいと思う。しかし、それを法で罰するわけにはいかない。自殺はある意味で、最後の「自己決定権」です。それを無理矢理奪うのは、他者の権利への過剰な干渉ですね。この辺、長尾氏は法と道徳のどちらを言っているのか、私には分かりません。

 尊厳死は生の自己決定ですから、法的に認められなければならないと私は思います。ただし問題なのは、living willが残されていたとして、尊厳死をいつどう行うか、は医師の手にゆだねられているということです。医師が不正を犯したりしないかどうかは、誰が確かめるか? これは問題ですね。その意味で、尊厳死を認めるということには大きな技術的な問題があるし、細心の注意をする必要があります。

 しかし、実は尊厳死は医療現場では日常的に行われています。機械の力で患者を生き延びさせることは、大変な費用がかかります。その費用を家族が負担できない場合には、こっそり機械を止めてしまう。もちろん、患者が生きたいと意思表示している場合はその限りではないのですが、死にたいと言っている人を無理して生きさせる必要はない、という判断は、倫理的におかしくはないと思います。

 さて、最後の死刑廃止論のところは、刑罰と正義の話ですから論点が別でしょう。一緒に論ずるのは問題を紛糾させるだけだと思いますね。これについての長尾氏の論証はやや簡単すぎていて、自分の信条吐露の域を出ていないと思います。


 なかなか鋭い質問で、久々にわくわくしながら答えました。でも学校ではこういう高校生を納得させるような言葉を持ってないだろうなー。お見事でした。
 この問題にはいろいろな考え方があると思う。他にアイデアがある人、もちろん別のテーマでもOKですから、
皆さんからの質問待ってます。