シニアのロースクール日記(4)2005年2月
2月3日(木) 刑事裁判を傍聴して 入学前ガイダンスで、刑事裁判と民事裁判を傍聴しておくようにとの指示があったので刑事裁判を傍聴しに神戸地裁へ行った。高速神戸駅で下車すると湊川神社がある。今日は節分で、丁度豆まきをしているところだった。人ごみに入り、帽子で豆を受けようとするが一つも入らない。あきらめて隣の赤レンガの裁判所に入った。受付で傍聴手続きを尋ねたが、勝手に入っていいという。202号法廷に入った。以下はその傍聴記録である。 1. 業務上過失致死 判決 禁固1.5年、執行猶予3年 傍聴席は被害者、加害者の関係者で埋まり、咳払い一つ聞こえない。緊張した空気のなかで裁判が始まる。被害者の遺族5人は被害者の遺影を持って左前列、加害者は右の座席に着席した。係官の「起立」の掛け声で全員が立ち上がる。加害者は若い大型トラック運転手、一方の被害者は18歳の少年、バイク走行中にトラックに轢かれ死亡した。母親と思われる女性は執行猶予付きの判決に涙ぐみ、閉廷と同時に飛び出して行った。 初犯であるため、執行猶予付との説明だ。しかし加害者と被害者の運命のアンバランスは大きく、なんとも釈然としない気持ちが残った。 2. 暴行 新規 見た目は普通の気の弱そうな男が、手錠と腰縄付きで現れる。裁判官が氏名、住所、本籍などの質問をした後、若い検察官が公訴事実を読み上げる。検察官によると、被告人は以前留置場で知り合った被害者との間で、1万円の貸し借りでもめ、被告人が返済を求めて被害者宅に押しかけ、顔面を殴るなどの暴行を加えた。被告人は、高等商船専門学校を卒業後、商船三井に入社、のち工事関係の自業を始める。被告は広島、明石などで暴力行為の前科有り。 被告人によると、身よりは知的障害者の妹と84歳の祖母。自業の経営が不振で金に困っていたので、住んでいるマンションを担保に金融業者から金を借りようと考えた。ところが、マンションは、死亡した母親名義になったままなので、被害者に登記変更の相談をした。被害者は相談料として、10万円を請求した。被告人は、被害者に1万円を払ったが、その後に返却を要求した。被告人によれば、それは相談料の一部ではなく、生活費に困っている被害者を不憫に思い貸したものと主張した。このほか、殴った回数、馬乗りになったか否か、首を絞めたか否かで食い違いがあり、供述調書を否認した。 年配の弁護士は、穏やかな口調で被告の離婚暦、兄弟音信不通など相談相手のいない寂しさからの犯行であることを強調して情状酌量を求めた。 2月24日(木)判決の言い渡しがあり、懲役8ヶ月。執行猶予期間中の犯行であるため、実刑は免れなかった。但し、反省の色があること、被害者に3万円の見舞金を支払っていることを理由にして、懲役1年のところ酌量減刑され8ヶ月になった。 3. 商標法違反 新規 法廷に現れた男は、スーツ姿で散髪をしたばかりで、身なりを整えている。保釈中のようだ。公訴事実によると、神戸三宮センタービルで雑貨店を営んでいたが、エルメスの偽ブランド品を韓国から輸入し税関で摘発された。被告人は違法性の意識がないと主張。「コピー品(刻印あり)は違反だが、タイプ品は適法と思った。今までコピー品を輸入した時のみ、違法とされたのでタイプ品の輸入販売は適法と考えた」との理屈だ。裁判官は勝手な解釈であると注意する。 弁護士は、既に廃業するなど社会的制裁を受けているとして、情状酌量を求める。 2月24日、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。 上記のほかに、インターネットオークションを利用した詐欺、神戸市内でのひったくり、ホームレスの常習累犯窃盗、大阪地裁では窃盗・売春防止法違反事件などを傍聴した。これらの事件を起こした者に共通していることは、仕事をしないか仕事に就けないことによる貧困が犯罪を起こさせていることだ。検察官は、求刑する際に刑務所で矯正させたいと述べるが、いささか疑問だ。仮に刑務所で手に職をつけたとしても社会復帰できるとは思えない。 たとえば、大阪地裁で窃盗・売春防止法違反の罪に問われた男は、腎臓の病気で人工透析をうけているが、働くことができず障害年金のほかに10数万円の生活保護を受けていた。治療費が嵩み、金に困りサラ金に手を出したところ、障害年金が振り込まれる預金通帳を借金のかたに取られてしまった。無一文になって、路上生活者になり、ゲームソフトを盗んで換金し、またピンクチラシを電話ボックスに貼って日銭を稼ごうとしたりしたところを逮捕された。もちろん出所しても帰るところはない。 また、常習累犯窃盗で起訴された20代の男は、幼い頃里子に出され、その後養護学校に預けられた。養護学校を出ても仕事がなく、何回も窃盗を重ねたため、刑務所に入ったり出たりの人生を送っている。今回は名古屋方面で窃盗を繰り返し、自転車を盗んで四日市の友人を訪ねたあと、神戸まで自転車でやってきた。廃車になった車の中で暮らし、ゴミ箱の残飯を拾って食い、盗みを繰り返す生活だ。無施錠の事務所に入り4千円を盗んだところを付近の住民に捕まり警察に引き渡された。この男も出所後に行くところはない。 刑務所に入れても矯正できるとはとても思えない。かといって、このままの生活を続けさせて放置するわけにもいかない。問題は貧困だから、刑務所を出た後仕事を与える手立てを国全体として考えなければ解決にならないと思う。最近ようやく議論が始まった社会の受入態勢の整備が望まれる。 刑事裁判を傍聴するのは、学生時代以来はじめてである。学内新聞に属していた1960年代初め、学生運動活動家の裁判を記事にするため傍聴したことがある。今では歴史の一部かもしれないが、第一次安保闘争、日韓会談反対、警察官職務執行法反対等で学生運動が盛り上がっていた頃である。デモ行進中に警察官の体に手を触れたとして、東京都公安条例か公務執行妨害の罪に問われた学生の裁判であった。その当時、東京地方裁判所は勝鬨橋近くにあった。正確に記録しようとメモをとったところ、裁判長から退廷こそ命ぜられなかったものの、厳しい注意を受けた。 その後、知る権利が尊重されるようになり、メモをとる行為は法廷秩序を乱さない限り認められるようになったが、最高裁が法廷でメモを採取する自由を認めたのは、それから30年近くの後の1989年のことである。随分時間がかかったものだ。 しかし、この裁判官の注意をきっかけに、その場ではメモを取らずに、終了後記憶をたどって記録する習慣ができた。会社に入ってから、この経験が活かされた。特に営業では、面前でメモを取ると相手は身構えてしまい、重要な情報を話そうとしない。逆にメモをとらなければ、安心して貴重な情報を話してくれる。そういう意味では、このときの裁判長に今でも感謝している。立場が代わって自分が購買課長になったら、若い営業マンが堂々とカセット録音機で面談内容の録音を始めたのに仰天した。営業の心得を体得させるために、暫く出入り差し止めにした。 今書いている傍聴記録も殆どメモなしに書いている。 2月8日(火) 民事裁判の傍聴 大阪地裁 509法廷 1. 建物明け渡し 原告側代理人が出席し裁判官が一言二言いって僅か一分で終了 2. 遺産確認 原告、被告代理人が出席 3. 請負代金 いずれも声が小さく何も聞き取ることができない。 505法廷 原告日本新薬の被告メナードに対する特許権侵害差し止め訴訟、509法廷と異なり丸テーブルである。これも当事者がテーブルを囲んで小さな声で話すので、何が争点になっているかよくわからない。わかったのは次回日程の打ち合わせだけだ。民事裁判は裁判の公開といっても「扉」を公開しているに過ぎない。内容まで公開しているとはいえないようだ。 2月14日(月)ドレスデン爆撃追悼記念日 朝7時に、テレビをつけチャンネルをBBCワールドに合わせる。BBCはトップニュースとして、ドイツ南東部の町ドレスデンの爆撃犠牲者追悼60周年記念の模様をつたえている。1945年2月13日午後9時頃、英国軍を中心とした連合軍の爆撃を受け、数万人の人々が犠牲になった。日本では、あまりこのことは知られていない。高校の世界史教科書には「多くの都市や、工業施設、交通網」が空爆を受けたとの記述はあるが、ドレスデンなど具体的な都市の名前まで詳しくふれたものはない。 ドイツに駐在した1999年から2001年までの僅か2年の間に、二人の人からドレスデンの惨状と悲劇を聞かされ、初めてこの歴史的事実を知った。そのうちの一人は、仕事の上で知り合った人で自動車部品を製造している会社の製造部長である。マイスター制度で鍛えられた、根っからの職人上がりである。その会社は、毎年夏にワグナー音楽祭が開かれるバイロイト近くの田舎町にある。もう一人は、フランクフルトで週二回ドイツ語を教えてくれた女の先生である。いずれも私と同年代の人だ。 ドレスデンの悲劇を聞いた時思ったことは、国民レベルでは加害者の立場であったことは忘れやすく、逆に被害者であった記憶はいつまでも残るということだ。これは我々日本人にもいえることだ。日本では毎年八月には広島と長崎で原爆慰霊祭が行われ、時には総理大臣が出席することがある。しかし、国民は南京事件のことはあまり知らないし、12月8日に真珠湾攻撃を思い出させるような行事はない。ただ、ドイツが日本と異なるのは指導者が心の底から被害国に謝罪したことである。西ドイツのブラント首相は1970年ワルシャワ・ゲットー犠牲者の慰霊碑の前で土下座して謝罪している。毎年アウシュビッツでの慰霊祭にはドイツ政府関係者も参加する。戦後60年経った今でも、日本が隣国から内政干渉がましいことを言われ、何度も繰り返し謝罪を求められるのは、目に見える形での謝罪ができていないからではないかと思う。 丸山真男は「現代政治の思想と行動」のなかで、興味深いことを述べている。「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るにわが国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、われこそ起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。」と。当事者にさえ意識がないのだから、戦争当時幼児であった現在の政治指導者に期待するのはないものねだりかも知れない。 2001年夏、離任により日本へ帰国する前にドレスデンの町を妻と訪れた。古い建物は爆撃の煤で黒ずんでおり完全には復興してはいなかった。しかし、Semper国立オペラ劇場は、東ドイツ時代に国の威信をかけて立派に修復されていた。僅か10マルク(約500円)の立見席であったがワグナーのオペラを堪能した。劇場に入る時には、タキシードを着た人たちが迎えてくれた。その劇場も2002年夏、エルベ川の氾濫で水に浸かったと聞き、残念な思いがした。 今日は、バレンタインデイである。妻と梅田の阪急4階にあるフランスレストランで食事をした。 2月17日(木)「アメリカ社会の公平と公正」 高校生用のテキスト「アメリカ新発見」を出版する企画があり、執筆者の一人に選ばれた。他に関西学院の先生、関西の高校の先生、企業のアメリカ駐在経験者など執筆する。関西学院アメリカ研究センターがNPO法人国際社会貢献センターに協力を求めて推進するもので、来年6月に出版される。「アメリカ社会の公平と公正」というテーマで、デトロイトでの仕事や日常生活の経験とロースクールを受験するために勉強して得た知識を組み合わせて、約1万字のボリュームで纏め上げた。以下はその要約である。 1990年代半ば米国の自動車メーカーは、日本車と競争するためには、品質が重要であることに気づいた。そこで車の品質の決め手となる部品を、世界中の優秀な部品メーカーから購入するシステムGlobal Sourcing(世界調達)方針に切り替えることになった。BIG3なかでもFordが、新たな調達方針によって、部品メーカーを選定するためにとった手法は「公平と公正」の原則である。「公平原則」は、予め先入観で特定のメーカーを篩にかけるのではなく、ビジネス参入を希望する企業に対して参入の機会を与える形で現れた。日本の部品メーカーであるからといって、排除することはなく欧米の部品メーカーと同様に会社の総合力を説明する機会が与えられた。「公正の原則」は、書類選考の後、最終選定をする場合に用いられた基準に貫かれた。製造、開発などの現場アセスメントや管理者との面接により、サプライヤーの選定を行った。ここでは、一切の情実が入らず、全て公正に一定の審査基準にしたがって評点がつけられ、意思決定がなされた。アメリカ経済が90年代を通じて順調に推移したのは、この徹底した「公平と公正」原則が貫かれたからといえる。 このアメリカ社会の原則は、企業間だけでなく、企業と個人との関係でも適用される。特に雇用や人事考課の面ではこの原則が貫くことが求められる。この原則は一朝一夕に出来上がったものではなく、黒人の奴隷解放運動から公民権運動に至るまで、非暴力活動と多くの犠牲により人権を獲得する運動を通じて実現したものである。 しかしアメリカ社会が「公平と公正」であるからといって、全ての人に幸福をもたらす社会が実現したわけではない。この原則は自由な競争社会を前提にした資本主義体制の原則である。したがって勝者と敗者の二極分化が不可避的に起こる。現実の貧富の差を見ると公平とは白人に対しての公平ともいえる。 日本の状況をみると、戦後から今日まで機会の平等と結果の平等のバランスを保ってきたので極端な二極分化は起こらなかった。しかし、世襲議員の増加や国立大学進学層の固定化などにその兆しがある。21世紀を迎えて二極化によって社会的緊張がおこらないような施策が求められる。 四方山話:ジェームスタウン アメリカの歴史で1620年といえば、「ピルグリム・ファーザーズ」を乗せたメイフラワー号がボストンの南のコッド岬に着いた年である。首都ワシントンの南、バージニア州にジェームスタウンという町がある。ここはイギリスの最初の植民地である。1607年に、102名のイギリス人が植民者としてやってきた。その人たちの名前と職業、身分が記した碑がある。大半がGentlemanで、時々Carpenterが出てくる。Gentlemanとは手に職を持っていない人のようである。これから2年の間に500人のイギリス人が来たが、1609年から1610年の冬に寒波が襲い、結局50人を残して大半が餓死する。ある男は妻を殺して塩付け(Salted Wife)にして生きながらえたとの記録も残されている。これから10年の後、メイフラワー号の一年前にアフリカから20人の人が連れてこられ、先に来たイギリス人に売り渡された。ここから、アメリカでの黒人の悲劇が歴史に刻まれていくのである。 2月19日(土)民法パンデクテンの歴史的背景−入門講義より 三回目の入学前ガイダンスが行われた。テーマは民法入門と刑法入門。ほぼ2時間30分でわかり易い入門講義を受けた。目的は未修者に対する概論講義だが、他校との重複合格者に関学入学を決断させることもあるようだ。 民法入門の講義では、「民法は私法の一般法である」とされていることについて、公法と私法、一般法と特別法の違いの説明から始まった。講義の中ではとくに、わが民法の特徴であるドイツ民法から取り入れたパンデクテン方式についての歴史的背景の説明が興味深かった。以下要約する。 「パンデクテンの特徴は総則があることだ。パンデクテンはローマ法に起源をもつ。ローマでは、都市が発達し取引が中心であったのでこのような方式が生まれた。ゲルマン社会のドイツは自給自足経済の農業社会であったので、このような方式は必要がなかった。ところが、12〜13世紀頃、農業革命が起こり、余剰農産物の交換→交換目的での生産→物の商品化という変化が起こった。そこで、ゲルマン法では対応できなくなり、6世紀の東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝編纂のローマ法大全の中心部分=パンデクテンをドイツに導入した。」 民法の先生は、論文を書くにあたっては社会的背景と結合して考えることの重要性を強調された。このことは小論文を書く上でもあてはまると思った。 帰宅後、ヨーロッパ中世時代にどのような農業革命があったのか調べてみた。高校教科書「詳説世界史」(山川出版社)には、「封建社会が安定し農業生産が増大した結果、余剰生産物の交換が活発になり、都市と商業が再び活発になり始めた。」との記述があった。またノーマン・デイヴィス著「ヨーロッパ?」(共同通信社)には次のような詳しい説明がある。「かつては中世の経済は不活発なものと考えられていたが、決してそうではない。ある見方によると、当時の北ヨーロッパの『農業革命』は、19世紀の『いわゆる産業革命』に『匹敵する決定的な影響を歴史に与えた』という。論拠の中心をなしているのは、新しい動力源としての水力や風力の利用、採掘事業の拡大、鉄製の犂や馬の牽引力の有効性、そして輪作と生育の改良などである。」 入学までに、わが国の法律に大きな影響をあたえたドイツ史を読んでみようと思った。 以上 |