シニアのロースクール日記(24)2006年10月 10月18日(水) 学校の勉強に集中 新司法試験の合格発表の結果を受けて、学校主催による合格者との懇談会が大教室で開かれた。来年受験を控える3年生の大半と、2年生も半分程度の者が出席した。 冒頭、司法研究科長が、一期生に比べて2年目以後に入学した者は緊張感が足りないと叱責された。一期生の多くは、旧司法試験に長年挑戦してきた人が多く背水の陣で臨む人が多かったという。そのため、授業態度は真摯なものがあり、またお互い助け合おうということでグループ学習を自主的にしていた。ロースクールに入学した頃の初心に帰り、気を引き締めよとの注意である。 こう言われると無理からぬ所がある。ごく一部の学生はよく休むし、遅刻する者もいる。授業料で換算すると、1科目90分授業を休むと約6千円を捨てたことになる。先生にもよるが、欠席すると1点減点、遅刻0.3点と厳しい人がいる。自分自身を振り返ると、長年会社生活の中で休んだのは、結婚した時と親が死んだ時くらいである。少々の風邪で休むことはなかった。風程度で授業を休む人をみると、仮に成績が良くても実務ができるのだろうかと気になる。 続いて、合格者のデータ分析が報告された。合格者の多くは学校の成績もよかった。合格者28名の内訳は、GPA30番以内では20人、40番以内では25人という結果であった。要するに、学校の予習、復習をキチンと行えば、合格の可能性が高くなるという説明である。旧司法試験の成績は必ずしも、新司法試験の合格と相関関係はないという。旧試験の択一合格者29名の内14名が合格、択一未受験または不合格者35名の内、合格者は14名であった。学校としては、ロースクールの教育の成果が現れているとの総合評価であった。 二人の実務家教員から、共通して「覚えるのではなく、理解せよ。日頃から自分の頭で考えるようにせよ。問題文から具体的イメージを描け」といわれた。 最後に、3人の合格者が体験談を述べた。そのうちの一人であるAさんは、「新司法試験は失敗に涵養である。基礎的な問題で考える力があることを表現できれば評価される」との感想を述べた。Bさんは「授業の予習復習に徹した。学校の成績でA+、Aがなくても平均してB+以上であれば合格圏内に入る」と合格体験談を話していた。 結論は、学校の授業の予習、復習をしっかりすること、自分ひとりのからに閉じこもらずグループ学習を通じて視野を広めることにあるといえる。正直のところ、学校の課題以外のことをする余裕はない。例えば、民事訴訟法は毎回二つの事件が取り上げられ、第1審から最高裁までの判決文を読み、事案の概要、各裁判の判断の違い、論点を説明することが求められる。90分の授業に対し、予習に最低5〜6時間必要だ。民法演習や民事裁判実務の科目では、毎週レポートの提出を求められる。とにかく1週間のたつのが早い。せめて、日曜日の半日程度は、のんびりとテレビを見るか、法律と無関係の本を読みたいと思うけれど、その時間がない。吉岡先生が三日坊主通信で書いておられる、ノーベル平和賞を受けたモハメド・ユヌスの「自伝−貧困なき世界をめざす銀行家」は是非読みたい本の一つである。 このように時間が足りない中でも、夏休みに始めた民法のグループ学習は、一部の人が時間を理由に抜けていったが、今でも週1回の頻度で続けている。月が変われば、中間試験対策をグループですることになった。必要に応じて、先生に入っていただき充実させていくつもりである。 10月29日(日) 高校単位偽装問題に思う 最近、関西のある自治体で、過去数年間で8日しか出勤していない職員に給与が全額支払われていることが問題になっている。医師が偽の診断書を作成して、不正行為に協力している。背景には、同和行政に弱い自治体の姿勢がある。偽装問題は、牛肉偽装事件に始まり、耐震強度偽装事件が続いた。 まさか教育界ではこのようなことはないと、思っていたところ、富山県の県立高校で、必修科目の世界史を履修していない生徒がいて、卒業に必要な単位を取得出来ないという問題が発覚した。この問題は全国規模で広がり、我が母校も例外ではなかった。それ以上に驚いたのは、内申書の偽装が行われていることだ。単位を取得していないのに、取得したとして高校教育に携わる人が偽装書類を作成し、大学に提出する。教育委員会もその事実を知りながら黙認する。テレビのニュースを聞いていると、高校生が鋭い指摘をしていた。「日頃は、服装をはじめとして規律に厳しい先生が、自ら不正をすることが許されるのか。そのしわ寄せを生徒にしていいのか」とテレビのマイクに向かって訴えている。 毎日の通学途上に県立高校がある。ここの校門では、自分が高校生だった頃とは異なる異様な光景を目にする。授業が始まる8時30分前後に各学年担当の先生が校門に立ちならび、登校してくる生徒の服装と遅刻者のチェックをし、注意をしている。 大学入試に不必要な科目はカットし、試験科目だけに集中して教えることが、果たして将来の人材育成にとって適切といえるのだろうか。学校で、若い人に接していると、殆どの人が戦後の歴史を知らない。高校の歴史で習ったのは、明治維新までという。ロースクールでも、GHQとか、サンフランシスコ条約とかの意味が分らないと、判例の理解が出来ないことがある。国語力も、十分とはいえない。「杜撰」を「とせん」と読んだり、「日歩」を「にちぶ」と読んだりする。「骨董商」になると、詰まって声をでてこない。漢字が読めなければ、問題文の意味も分らないはずだ。日頃、ロースクールの先生からは、問題文を読んだら具体的イメージを描くようにといわれている。日本語が読めなくて、イメージの描きようがないのではないか。辞書を引いて意味を確かめる習慣が必要だと思うのだが、それもしない。こういうところにも、入試偏重教育の弊害が現れているのかなと思う。 |