はじめに
私は、太平洋戦争開戦の年、琵琶湖西岸の寒村の兼業農家に生まれた。小学校の卒業式で校長先生は「琵琶湖の鮎は全国の河川に放流されて大きく成長する。君たちも琵琶湖の鮎のように大きくなれ」と励ましてくれた。この言葉は、今までも心に残る。そんなわけで、大学進学の時も関西にはとどまるまいと、浪人して東京の大学に進学することにした。 卒業後は、大手の製造会社に就職し、キャリアの半分近くは国際関係の仕事に従事した。アメリカには、デトロイトで7年、現地責任者の立場で駐在し、自動車のビッグスリーとの取引の目処をつけた。初めは二人で始めた会社が数年後には50人にまで成長し、ビジネスマンとしては成功したと思う。その後、ドイツに転勤し、さらに市場開拓に取り組んだ。「外の世界に出て」十分大きくなったかはわからないが、異なる文化の世界に身をおく経験を重ねることができて、前半生はよい人生だったと思う。異文化といっても、相違点より共通点の方がはるかに多い。どこが違うかよりも、その共通点をどれだけ認識することによって相互理解も生まれるというのが、そこで私の得た教訓だ。 ドイツで定年を迎え、9.11テロの翌日便で帰国した。さて、何をするか? 60歳の誕生日を迎えたからといって、突然その日から働く能力が雲散霧消するわけではない。欧米の基準では、定年制は明白な年齢差別であり理不尽な社会制度だ。とはいえ、日本でそんなことを行っても始まらない。定年後を充実させるのは、自分の心がけ次第と考えることにした。 もちろん定年後の選択肢として子会社に就職する道、いわゆる天下りがないわけではなかった。が、その道は選ばなかった。たとえ子会社で職を得たとしても65歳になれば辞めざるを得ない。その時点で新しいことに挑戦する気力が残っているとは思えなかった。90歳まで生きるとして後30年。時間は十分あるのだから、その分を充実して過ごせる仕事をしたい! しかし、いきなり名刺もなく肩書きもない身分に置かれ、所属する組織や集団もないとなると、気持ちが不安定で落ち着かなくなった。40年前に経験した浪人時代と同じだ。そこで考えたのは「浪人」であれば予備校に行くしかないということである。今度も「琵琶湖の鮎」の伝で、今までのビジネスの世界とは異なる場にチャレンジしようと思い立った。しかし目標は高いほどやりがいがある。司法試験に挑戦しよう! と思った。授業料は厚生労働省の教育訓練給付制度を利用して捻出し、予備校にせっせと通って、半年後に腕試しで択一試験を受けた。結果はもちろんダメだった。小学生の学力で大学入試の微分積分に挑むようなものである。2年目も受験したが、合格点には程遠い。 これ以上、勉強を続けても合格までに何年かかるかわからない。特に刑法は、ほとんど未知の外国語かと思われた。「原因において自由な行為」とかなんとか難解な学説を理解し、しかもそこから導かれる帰結をパズル形式でとく能力が求められる。とても数年で解けるようになるとは思えなかった。挫折感を味わっていた頃、かつての職場の上司が、役員定年後の人生の過ごし方として中国の砂漠の緑化活動に携わると聞いた。彼は、このために中国語の勉強を始めると同時に、神戸大学の農学部に学士入学し植物学を勉強し直すという。感心した。やはり何をするにも、基礎から学ぶ必要がある、受験術だけで状況を乗り切ろうとする自分は甘いとちょっぴり恥ずかしくなった。 そこで、新たに導入されるロースクールに行こうと方向転換した。ここなら、基礎からしっかりと学べるし、身につく勉強ができるはずだ。幸いロースクールの中には社会経験や語学力を重視するところがあり、展望が開けるかもしれないと思った。早速、初年度の11月の追試験を受験した。ところが「ド・モルガンの法則」の何たるかも知らない状態なので、結果は平均点をはるかに下回り、出願書類を送ったロースクールの全てで門前払いという結果に相成った。 年が明け2004年1月、東京青山で大学のクラス会が開かれた。数年前から開かれているらしいが、案内が来たのは今回が初めてである。実に40年ぶりに再会する人もいた。殆どの人が子会社の役員か大学の先生をしている中で、近況報告として「髪結いの亭主兼傘張り浪人」と言い続けるのはいかにも悔しい。悠々自適の生活かと表面は羨ましがられるが、内心はそう思っていないことは顔を見れば分かる。今年は何としても入るぞと決意を固め、適性試験、TOEIC、小論文対策の準備をしっかり行うことに決めた。 いろいろ工夫して勉強した結果、DNCの適性試験の結果は48点と平均点を下回ったが、英語と小論文で挽回することができ、10月初めに晴れて関西学院大学ロースクールに合格した。関西学院に出願したのは、現行司法試験の上位20校にランクされていること、国際的に活躍できる法曹の養成(尤も、これはどこのロースクールも謳い文句にしているが…)を目的の一つとしていること、そして通学時間30分という交通の便の良さである。とりあえず、自分の努力が稔ってうれしい。しかし、勉強はこれからである。人生の残りを充実させる機会を与えられたのだから、一生懸命励みたいと思う。夢は日本に進出する企業の法的サポートが出来る弁護士事務所を開くこと。まだ時間はしばらくかかるが、とにかく最初の門は開いたのだから頑張りたい。 11月末に一橋大学受験のため上京した際に、宿泊先の四谷のホテルのレストランでインターネット講座で添削を受けた吉岡先生に会った。先生からロースクールで苦労したこと、失敗談、迷い、悩んだこと、時には気分転換の仕方などを記録してはどうかと薦められた。元々自分自身の記録を作りたいと思っていたので、この提案をよろこんで受けることにした。 吉岡先生の名前を知ったのは、2004年適性試験の直前に出版された「解法の技術[読解・表現力]」である。著者の略歴を見ると、私と同じ大学でしかも同じ学部の出身である。さらにホームページを見ると、驚いたことに同じ社会学科の卒業であることがわかった。これまで予備校の添削コースに対して、添削者の息使いが伝わってこないという不満を持っていたので、早速「志望理由と小論文添削のコース」を申し込んだ。5月から9月までの5ヶ月間で、志望理由書は延べ7回、小論文は16回の添削指導を受けた。インターネットであるため添削者の顔は見えないが、どの添削からも吉岡先生の熱気が伝わってきたのを覚えている。家庭教師について、個人指導を受けているような充実感と満足感を味わうことができた。 今回先生のご好意により、入学試験からロースクール卒業までの記録を、ホームページに記載させていただくことにした。一定のペースで掲載されるはずなので、よりよい人生を送ろうとする人間の一つのケースとして、参考になるかと思う。しばらくおつきあい願いたい。 2005年1月 西宮市在住 仁賀 忍 ▼Homeに戻る |
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