2009年10月26日
●『六法』の楽しみ方
「ロースクール生活を生き抜くコツは数多くあれども、一番の秘訣は何か?」と問われれば、答えは、「好きこそものの上手なれ」。結局のところ、法律を好きになることに尽きる気がします。
法律に恋すれば、今まで憂鬱(?)だった授業開始前の待ち時間も、恋人とのデート前の待ち合わせのような楽しい時間に変わること間違いなし! ソクラテス・メソッドの授業は恋人との熱い語らいの時間に早変り……のはずなんですが、こればっかりは、そんなに都合良く法律を好きになれるわけもなく、一体どうすればいいのやら。まずはこの『六法』に親しむところから始めなければ……
ロースクール入学を控えた2年前のちょうど今頃、そんなことをぼんやりと考えながら買ってきたばかりの『デイリー六法』の「創刊時はしがき」を眺めていたら、憲法学者の佐藤孝治先生が、なかなか興味深いことを書いていました。その大意を簡単にご紹介すると――
キミ、『六法』って「無味乾燥でつまらない」なんて思ってるんじゃないかい。ふむふむ確かに、『六法』に小説のような面白さを求めるというのは、そりゃあ筋違いだろうね。でも、小説にだって一度読んだらもう二度と読み返さないような、つまんないのが結構あるだろう? 逆に無機質に見える『六法』の条文の中にも、実はその法文が記されるに至るまでの悲喜こもごも、色んな人間ドラマが息づいているのが、よく読めば見つかるものなんだよ。
とまあ、勿論こんなフランクではなく、もっと格調高い文体で書かれてはいましたが、おおむねこんな感じの内容です。
これには目からウロコ。「なるほど! じゃあ『六法』を読むときは、それこそシェイクスピア作品を味わうように接すればいいのか」と、さっそく自分でもトライしてみました。
その結果……僕の想像力が足りないせいなのか、それとも人間性があまり高尚ではないせいか、今現在に至るまで、いまだに佐藤先生のおっしゃるようなドラマティックな『六法』の楽しみを味わえたことはありません。ううむ法律奥深し。
もっとも、条文の背後にあるものに注目すべきだ、という指摘は、『六法』を読むときのひとつのヒントになりました。
個人的に興味を惹かれたのは、むしろ『六法』の条文がこんなにも平板でつまらない文章になっていること自体に、ある種の強い意思を読み取りうる、ということです。
例えば、殺人罪について、刑法199条は「人を殺したものは、死刑又は無期懲役若しくは五年以上の懲役に処する。」としています。なんとも味気のない条文ですよね。「人を殺してはいけない」とか「人殺しはとんでもない奴だ」云々とは書かれていない。何故なのでしょうか?
勿論、条文は「要件」と「効果」(例えば売買契約ならば意思の合致が「要件」で、所有権移転が「効果」)で構成されるものなので、「悪い奴だ」などと何の意味もない文言を書き込んでもしょうがないから書かれていないだけだ、という見方も出来ます。
しかし、現行憲法を含めた近代憲法がリベラリズム(自由主義)を要請するものであることを考え合わせれば、少し別の見方も出来ます。
リベラリズムとは、一般に、法や公共団体の価値中立性を最重視する立場です。何がいいことで何が悪いことかは個々人が自ら決めるべきことで、政府がそれに口出ししてはいけない、という立場です。「法と道徳の分離」という言葉をご存知の方も多いでしょう。
これを前提にして先の条文を読むと、法の中に個々人の好悪の感情を持ち込んではならない、というステートメントが表明されている、とも読み込み得るのではないでしょうか。
つまり、この「〜五年以上の懲役に処する」という平板な条文の文言から、リベラリズムを徹底すべし、という意思を読み込み得る、ということです。
ここからさらに踏み込めば、刑法によって何が(誰が)律されているか、も見えてきます。
先に例として挙げた刑法199条で言えば、これは、「私たちが人殺しをやっていいか悪いか」について書かれたものではない。そうではなくて、「殺人犯を処分するときに裁判所(司法権)が何をやってよくて何をやってはいけないか」を律するものとして書かれている、と読むべきなのです。刑法によって律されているのは、私たちで はなく裁判所なのです。
したがって、私たちが仮に殺人を犯したとしても、刑法「違反」にはなりません。他方で、裁判所がもし殺人犯を「懲役1か月に処する」などと判決してしまうと、これはばっちり刑法「違反」になってしまうのです(このことについては、社会学者の小室直樹先生が著書『痛快! 憲法学』の中で述べられています。興味を持たれた方は是非ご一読してみて下さい)。
同様に、例えば拳銃や麻薬のようないわゆる禁制品についても、法はその良し悪しについて何も言及していないと読むべきでしょう。
でも、銃刀法の条文には「〜を所持してはいけない」とはっきり書いてあるぞ、とおっしゃられる方がいるかもしれません。
確かに、文言上は「いけない」となっています。しかし、これは、銃や麻薬のような禁制品が「法の所定の手続きを経て没収の対象となる物である」と規定している、と読み替えるべきでしょう。
もしそう読み替えないと、善悪レベルの話以前に、これらの禁制品が法的に所有権の対象にすらなりえないことになってしまいます。
そうすると、例えば、暴力団員が麻薬密売人を殴り倒して麻薬を強奪した、などという事件が起こった場合に、麻薬に所有権が認められない結果として、この暴力団員を強盗罪は勿論のこと、窃盗罪にすら問えないことになってしまいます(せいぜい暴行罪にとどまる)。
たとえ麻薬であっても、法の所定の手続きを経て没収の対象となりうる限りにおいては所有権の対象となりうる、と解釈しないと、裁判所がこれを裁くことが出来なくなってしまうのです。まあ、麻薬密売人なんて悪い奴は法で保護する必要なし、という価値観に立ってしまえば、別にこんな結論が導かれても構わないの かもしれませんが……。
このように、私たちは普段、条文の文言から「人殺しはいけない」「銃や麻薬はいけない」といった、一定の価値観を勝手に読み込んでいまっています。
話がさらに横滑りしてしまいますが、銃社会アメリカの問題を語るときによく引き合いに出される有名な条文である合衆国憲法修正2条には、人々が「arm(武装する)」権利、と書かれています。決して「gun(銃)を持つ」権利ではないんですね。これも文言通りにいけば、別に銃に限らず個人が戦車やミサイルで「武装」してもいいはずではないか、とも言えそうです。でも、誰もそんなことを言わないのは、条文を読み込む際に一定の価値観が前提となっているからでしょう。
「この条文から、自分はいったい何を読み込んでしまっていのるか」――そんなことを考えながら『六法』に向き合ってみれば、退屈な『六法』から、いつもとは少し違う景色が見えてくるかもしれません。
by man on the moon
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