2009年9月1日 
●法律学の「アキレスと亀」問題    
 
  カメ

 「そもそも法律学とは何か。論理学をベースに人を納得させる技術です(※あくまで素人見解です。専門家の方、間違っていたらすみません……)。
 では何故、法律学が必要なのか。社会学者マックス・ウェーバーによれば、それは「社会における予測可能性を高めるため」、ということになります。
 つまり、もしも法律の恣意的な解釈が許されるのであれば、同じ行為をしても、ある場合にはそれが適法とされ許されるのに、ある場合には違法として罰を受けることがありうる。
 そうすると、どのような行為がOKで逆にどのような行為がNGかが一般市民にはあらかじめわからず、罰せられることをおそれて、我々の行動は大きく制限されてしまうことになります(萎縮効果が生じる)。
 しかし、論理学をベースに解釈すれば、理屈上は前提が同じであれば、常に同じ結論が導かれますから、私たちは、あらかじめ自分の行為の帰結を予測することが可能になります。このようにして人々の行動の自由を確保することが、法律学の重要な目的のひとつなのです。

 このように書くと、「法律学おおいに結構。すべてビシバシ論理で片付けるべし」となりそうですよね。ところが時に、論理を徹底して貫くと、一般常識からは遠くかけ離れた、とても奇妙な結論に至ってしまうことがあります。

 そのひとつに、民法では「契約準備段階の過失」という問題があります。
 例えば、ある美術館が、有名な画家の展覧会を開くことを決めて、その有名画家の絵を所有者からレンタルする契約を結んだとします。
 ところが、いざ開催直前になって、所有者が「やっぱり貸さない」などと言ってきた。すでに展覧会は告知済みで、前売りチケットも完売状態。美術館側は、展覧会にあわせて館内を改装したり、警備員を手配していたりして、展覧会の中止によって大損害をこうむってしまう。
 このような場合、民法415条では、契約の債務不履行を理由に損害賠償を請求することが出来ることになっています。ここまでの話は何の問題もありません。

 でも、もしもこの時、両者がまだ正式な契約を締結していなかったとしたら、どうなるか。所有者は、展覧会開催に協力的で、さもレンタル契約を結ぶような態度を取っていたとします。美術館は、それをすっかり信用していた。常識的に考えれば、直前になって「やっぱり嫌だ。契約は結ばない」なんて言い出したら大 迷惑ですから、最初の例と同じように損害賠償を請求できそうですよね。
 しかし、415条は、あくまでも契約関係にある両者間を規定した条文です。この場合、まだ両者は契約していない以上、法的にはあくまでアカの他人同士ということになってしまう。どこぞの誰かが大損したからといって、アカの他人がそれを弁償しなければいけないいわれはない。そうすると、損害賠償を請求する法的 根拠がないことになります。なんとも奇妙な話ですが、理屈を徹底して貫けば、損害賠償を請求することはできない、ということになってしまいかねないのです。

 個人的には、このような問題を、法律学の「アキレスと亀」問題と呼んでいます。
 「アキレスと亀」というのは、ギリシャの哲学者ゼノンが考案した有名なパラドクスのひとつで、「(俊足の)アキレスと(鈍足)の亀が競争すると、永遠にアキレスは亀を追い抜けない」という話です。

 ご存知の方も多いとは思いますが、具体的には、こんな話です。
 ある日、アキレスと亀が競争をすることになった。しかしアキレス(古代ギリシャ神話の登場人物で、俊足で有名)の方が亀より早いのは誰の目にも明らかなので、ハンディをつけ、亀の方が、よりゴールに近い地点(A地点)からスタートすることにした。いざ、スタート。すると、まずアキレスは亀の最初にいたA地点まで、あっという間にたどり着いた。もっとも、亀もその間に少しばかり前進して次のB地点まで進んでいた。そこで今度は、アキレスはB地点まで走っていった。すると、その間に亀もほんの少しだけ前進してC地点まで進んでいた。そこでまたアキレスは……(以下繰り返し)。
 このようにして、アキレスはいつまでも亀を追い抜けない、という話です。

 記述自体は論理的に無矛盾と思えるのに、子供にでも、現実にこんなことが起こるはずはない、というのがわかる、というひとつの例です。
 このパラドクスは、「ある二点間の空間は無限に分割可能である」という前提から「運動は不可能である」という帰結を導こうとするものなのですが、これに対しては、様々な角度から解答が用意されています。数学的には、このパラドクスは無理数について言及したものだとされているようです。
 無理数の中でも誰もが知っている有名なものといえば、円周率(3.1415……)でしょう。ご存知のように、円周率は(整数や分数によっては表記不可能で)永遠に割り切れず計算が終わりませんが、だからといって誰も「円周率が存在しない」、という結論には至らないですよね。
 つまり、一定の論理形式を備えた記述によって表記が不可能な事象について、その事象が現実には存在しないとする帰結を導こうとするところに、ゼノンのパラドクスの奇妙さの正体があって、こんな場合には、単に「π」として表記してしまえばすむじゃないか、との結論に至るのです(※素人見解でかなり話を短絡化 してます。専門家の方、間違ってたらすみません)。

 話がずいぶんそれてしまいました。最初の「契約準備段階の過失」の話に戻れば、法律学的には、既に一応の解決済みとなっています。
 判例では、このような場合、「一般市民間における関係とは異なり、信義則の支配する緊密な関係に立つ」とされていて、損害賠償請求が認められています(ただし、賠償範囲などで契約関係のある場合とは違いがあります。詳しくは民法の教科書などをご覧になってください)。
 つまり、法的にまったくアカの他人同士ではないよ、「信義則」上の法的関係があるからそれに基づき賠償責任が生じるよ、という、一般常識的には妥当な結論を述べています。

 ちなみに、判例のいう「信義則」というのは、私法の一般条項などと呼ばれているもので、民法1条2項「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」という条文のことを指します。
 「信義」も「誠実」も、その言葉自体は何の具体的内容も意味しませんから、その中身は、結局我々の社会が何を信義誠実であると思うかによって決まります。
 民法ではたまに持ち出される条文で、この「契約準備段階の過失」問題のように、論理を徹底してしまうと現実的には明らかに妥当でない結論が導かれてしまうような場合に、それを修正するための最後の手段として使われることが多いです。
 この、法律構成に困ったときに「信義則」を持ち出すやり方って、なんだか数学で無理数の円周率をπと表記するのと似てるなあと感じます。

 「論理的な整合性か、結論の妥当性か。それが問題だ」と誰かが言ったかどうかはわかりませんが、法律に触れていると、この両者が対立する場面にしばしば直面します。
先の「契約準備段階の過失」問題のように、ほぼ誰もが異論なく後者を優先するようなケースもありますが、もっと両者が激しく拮抗している問題もあります。

 これはロースクールに入っての印象なのですが、このような場合、既習者の方は、比較的、論理的整合性の側を重視する人が多いように感じます。
 確かに、その方が形式的一貫性という美しさがあるし、実際上、答案としても書きやすい場合が多いかもしれません。
 しかし、個人的には、なるべく結論の妥当性(社会的な常識)の方を重視するようにしています。
 それは、法律はあくまで社会をうまく回していくためのツールに過ぎないのだから、それが機能しない場合には、社会にあわせてツールを修正するべきで、ツールの方に社会をあわせようとするのは本末転倒だ、と考えるからです。
 また、「何が社会的な常識で妥当な結論か」は、それ自体がひとつの価値判断であり、論争の対象です。
 前々回に触れたこととも重なりますが、純粋未修者としては、「我々の社会でどんな合意形成がなされているか」について説得的な記述を展開するほうが、ロースクール制度本来の趣旨からすれば高い評価を受けられるはずなのではないか、とも思います。

 銀行に勤めていた人、不動産業界出身の人、学校の先生……それぞれ自分自身のバックグラウンドをうまく生かして、様々な場面の「アキレスと亀」問題に取り組んでみれば、他の人とは一味違う、「光る」解答が導き出せるのではないでしょうか。


by man on the moon

               
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