2009年6月12日
●ロースクール入試小論文の意義
みなさん、はじめまして。専務からバトンを引き継ぎまして、今回から当コラムを担当させていただきます、三十路の元編集者です。文学部出身、法律ド素人でロースクールに入った一人として、ロースクール生活の日々の中で感じることを綴っていきたいと思っていますので、純粋未修者がロースクールという過酷な環境の中で生き抜くための何かしらのヒントになれば幸いです。どうぞお付き合いよろしくお願いします。
それにしても、専務もここで散々おっしゃっていたように、ロースクールは、純粋未修者にとってはそれこそ人外魔境(?)のようなところです。
外国語のような奇妙な法律専門用語の数々。まるで屁理屈にしか聞こえない “学説”のオンパレード。そして骨の髄まで法律学を叩き込まれた法学部卒の猛者たち。まったく、戸惑うことばかり……。
喩えて言うなら……ほら、『千と千尋の神隠し』って映画がありますよね? あの、八百万の神様たちが集まってくる湯屋に突然迷い込んでしまった主人公、千尋の気分を、思う存分に満喫できることうけあいの場所です。
でも、そんな門外漢だからこそ、純粋培養の既習者とは違う視点から、かえって見えてくるものも、あるような気がします。
そのひとつとして今回取り上げたいのは、法哲学や法社会学のような、いわゆる基礎法学を学ぶことの大切さ、です。
ちょうど今は7月。適性試験を終え、未修者コースを目指されている方たちは、各校の小論文入試対策に本腰を入れている時期かと思います。
この小論文入試では、こうした基礎法学分野や、その周辺領域をテーマにした出題がされることが多いですよね。
これは、未修者には法律知識を問うことが許されていないため、受験者の法的思考のセンスを問うために致し方なく、という事情があってのことだろうと思います。
ところが、実際にロースクールに入学した後は、このような基礎法学についてしっかり学ぶ機会は(選択科目として自分で選んだりしない限りは)、カリキュラム上、ほとんどありません
。
ロースクールの授業で学ぶのは、もっぱら法解釈学です。「○○条の○○という文言は……○○と解釈すべきである」みたいな話ですね。
なんだか変だなと思いました。解釈は価値判断の世界(「べきだ」)の話ですから、科学(「である」)の世界ではありません。解釈は、何らかの価値判断が土台となって行われるもののはず。なのに、その土台となるべき部分について、入学後にはほとんど学ぶ機会がないんです。
わかりやすい例を挙げるならば、刑法で「推定無罪」って有名な原則がありますよね。「百人の罪人を放免しても、一人の無辜の民を罰するなかれ」なんて表現されたりすることもあります。
勿論、ロースクールの授業で、この原則については必ず触れられます。でも、何故このような原則がとられるべきなのかという価値判断については、あまり突っ込んで学んだりはしません。
歴史や社会思想について興味がある方ならば、政治思想家のホッブズが、国家権力のことを、旧約聖書に登場する伝説の海の怪獣になぞらえて、「リヴァイアサン」と呼んだことをご存知だと思います。
近世西洋において、国家権力の恣意的な行使が横行して悲惨なことになった、という歴史的な教訓から、国家権力というのは放っておくと暴走するとてつもなく恐ろしい怪物なんだ、法でガッチリ縛りをかけておかないと大変なことになりかねない、という考え方が出てきた。
たとえ悪人を100人世に解き放ってしまったとしても、その害悪はしょせんタカが知れているけど、国家権力に好き勝手してもいいよ、としてしまうと(つまり、犯罪を防ぐためなら、一人くらい無実の人間を罰してもいいよとすると)、結果的にはもっと大変なことになるよね、という価値観が生まれてきて、これが推定無罪の原則に繋がるわけです。
あるいは別の例。民法の基本原則のひとつに、「私的自治の原則」というものがあります。ごく簡単に言えば「自分のことは、自分で決められる」という考え方です。そこから、私たちが今日当たり前に前提としている「契約自由の原則」が出てくる。
この原則について、日本の民法学者で一番有名なひとりである内田貴先生は、『契約の時代』(岩波書店)の中で、こんな風に論じています。大まかに要約すると……
契約自由というのは、自由な個人を出発点に考える古典的な契約像である。そして、この古典的な契約像は、近代の自由主義という理想により支えられていた。
でも、今の社会では、こうした契約像では解決できないいろいろな問題が出てきている。
そこで、新たに「関係的契約」の観点の導入を図るべきだ。
この新しい契約像を支える思想は、契約関係の背後にある社会関係を重視して、社会や共同体の中の規範に価値を見出すという思想になるだろう。
と、こんな具合です。政治思想に興味がある方ならば、ここで内田先生の主張なさっている、“「関係的契約」を支える思想”というのは、コミュニタリアニズム(共同体主義)のことを言っていんだなと、おそらくピンと来たのではないでしょうか。
ちなみに現在、民法の債権法分野の法改正の準備が進められていますが、内田先生はその検討委員会のリーダーの一人となっています。個人的には、必ずしも内田先生がおっしゃっていることが妥当だとは思わない部分もあるのですが、今後、こうした考え方を反映した法改正が行われていくことは、予想に難くありませんよね。
勿論、こんなことは司法試験の本番で直接問われたりすることはありませんから、知っていても知らなくても、試験の点数には何の関係ない、とも言えるかもしれません。
でも、ただ表面的な言葉の解釈を知っているだけなのと、その思想的なバックグラウンドまで含めてちゃんと理解しているのとでは、実際の事案に取り組む際に、決定的な差が出てくるように思います。
ちなみに、これは入学してから知ったのですが、ここ日本では、法学といえば法解釈学が花形ジャンルで、基礎法学は、法学部であまり人気のないマイナー科目なんだそうです。
ところが、日本のロースクール制度のひとつのお手本となったアメリカではこれとまったく逆で、法学といえばもっぱら基礎法学のことで、解釈学なんてものは学問ではない(というとちょっと誇張しすぎかもしれませんが)、実務家がやればいいんだ、というのが、ごく一般的な考え方のようです。
この考え方からすれば、実務家養成のためのロースクールで法解釈学がカリキュラムの中心となるのは、当然のことなのかもしれません。
でも、そこには、学生が法解釈の土台となる価値判断を身につけていることが、暗黙の前提になっている。アメリカのロースクールで、他の学問分野について学んだ経験があり、社会経験を経ている人物が重視されるのは、こうしたバックグラウンドを持っていることで、その人なりの価値観がすでに育まれている、と評価されるからです。
ひるがえって、日本の司法制度改革の建前も、多様なバックグラウンドを持った人を法曹界に入れて、開かれた司法を目指すということですから、法解釈学純粋培養の既習者よりも、その点では未修者の方が絶対に有利なはず! きっと! (まあ、希望的観測ではありますが……)
ロースクール入学後は、授業で与えられる課題でそれこそ手一杯になってしまいますから、小論文対策をしている今の時期にこそ、できるだけいろいろな文献をあたってみることをお勧めします。この段階で自分なりの価値観をなるべく固めておくことは、きっと入学後のアドバンテージになるはずですから。
最後に、ご参考までに、個人的に読んでみて、非常に有益だったと感じた本をいくつか挙げておきますね。
●碧海純一 『法と社会 法学入門』 (中公新書)
法と社会のつながりについて考える法哲学の入門書として
●ジョン・ロールズ 『正義論』 (紀伊國屋書店)
近代法の大原則であるリベラリズムの立場を知るために
●アマルティア・セン 『不平等の再検討』 (岩波新書)
もうひとつの大原則、平等原則についての理解を深めるために
●森村進 『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』 (講談社現代新書)
近代の所有権概念が、どのような思想から生まれてきたのかを知るために
●ジェラード・デランティ 『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』 (NTT出版)
コミュニタリアニズムの登場した社会的な背景を知る手がかりとして
by man on the moon
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