3 ヨーロッパ知識人を騙したイスラム狂信者


 
長い長い中断の後、ベルリンから再び原稿をお送りするにあたって、 ラマダンのテクストを選んだのは、中途半端なままの原稿を仕上げたい、夫に依頼した原稿をそのまま私のところで捨て去るのは申し訳な い、という個人的理由もありますが、時期的にも幸か不幸かタイムリーなテーマではないかとも考えました。本文にもあるように、タリ ク・ラマダンに対する西洋での幻想は崩れかけてはいるものの、決して忘れられた存在ではなく、彼はやはり活発に動いている様子です。
 2週間ほど前にベルリンで開催された国際文学フェスティバルの招待作家リストにもタリク・ラマダンの名前がありました。8月の NYRB(New York Review of Books)でもタリク・ラマダンの著書5冊(英語版)について、彼の欺瞞と危険性を指摘する書評 が掲載されていました。まだまだ「注意人物」ということなのでしょう。

 
先頃、大規模なテロ未遂が摘発されたドイツでは、イスラム・コミュ ニティとの共存、イスラム原理主義との対決がまたまたホット・トピックの一つとなっています。逮捕された3人のうち2人 がイスラムに改宗したドイツ人で、パキスタンでの「テロリスト養成 キャンプ」に参加したことがわかり、この種のキャンプに参加すること自体を違法とする新法の是非も真剣に議論されはじめました。
 隣国 フランスでは、サルコジ政権になって新たな移民規制法が可決しました(家族呼び寄せにDNA証明を課す、フランス語の習得や政教 分離などのフランス的価値やフランスの社会や文化の歴史の学習を義務づけるなど)。左翼系やリベラルからの反発も強いことは事実ですが(ル・モンド紙も社説で批判)、「寛容」であるとされてきた英国、オランダ、ドイツでも同じような法律の制定が近いと言われ、「危機感」や不安が少しずつ社会のなかに浸透してきているのかもしれません。そうは言っても、振り子のように議論は揺れ続けています。

 話は少し外れますが、先週ベルリンのクロイツベルク地区にマクドナルドがオープンして大きな話題となりました。マクドナルドが珍しいわけではありません。日本ほどではないにせよ、ドイツにもあちこちにマクドナルドのお店があります。問題はクロイツベルクという場所。
 かつてはベルリンの壁近く、今では市の中央に近い地区ですが、昔からいわゆる左翼系、エコロジスト、オルタナティブ、アーティストが多く住む地区です。学生やトルコ系市民も多い。ドラッグ取り引 きをするギャングがいる一画もあればブルジョワ的な界隈もある・・・何とも複雑な住民分布を見せる地区なのですが、90年代半ばまではドイツの法も規則も及ばない「自治区」あるいは「無法地帯」のような場所でした。
 たとえば、東西ドイツ統合後、新しい首 都の中心地になると見込んで営業を始めた「オシャレで高級そうな」 レストランなどは暴力的な嫌がらせを受け、ほとんどが撤退したと言います。今でも「既存の価値すべてに反対」という空気が濃厚な場所 と言えます。そこにマクドナルドの新店舗ですから、開店前から抗議 活動は激しいものでした。
 「帝国主義」や「グローバリゼーション」 など、お決まりの文言が叫ばれる威嚇的な抗議。開店当日、どのくらい激しく暴力的な抗議活動になるのか、暴動にまで発展するのか、店舗はどれほどひどく破壊されるか等々、さまざま予測が飛び交いましたが、結局はあまり混乱もなく営業を始めることができたようです。マクドナルド側もトルコ系ドイツ人を店長に、50名のスタッフも11の異なる文化的・民族的背景を持つ人々にするなど、心情的に攻撃しにくい状況を作って防戦したのでした。

 それにしても・・・。この一連の騒ぎを知ったとき、私はまず「何を今さら」と半ば呆れ、過激な左翼がベルリンにはまだまだ多いのか、 と半ば驚いたのですが、夫から「それは違う」と言われてしまいまし た。クロイツベルクの様子を聞いて、かつての安田講堂や東大病院、 駒場の第7本館の「占拠」状態を思い出し、そのような状況が拡大されてベルリン市街に生き残っていたのかと私は考えたのです。 左翼系の空気は残っているけれども、クロイツベルクの主流はもはや 組織された左翼でもなく、思想的な左翼でもないとのこと。敢えて言うならば自由の濫用、破壊行為の容認。住民構成の複雑さと同様、簡潔に説明することはできないようです。

 そして再び、それにしても・・・。私自身はいつ、どのようにグロー バル化や(文化的)帝国主義の問題に決着をつけたのか、つけていないのか。何となく流されて今にいたったのか。具体的にマクドナルドの問題について質問されたらどう答えるのか。棚上げにしていた問 題をもう一度突きつけられたような感じがしたことも事実。議論にな れば、私なりの意見を述べる自信はあるにせよ、そのような議論は面倒で疲れるというのが正直な感想です。日本風に(?)少し曖昧なまま流されることに少し後ろめたいのも事実。ともあれ、機会があればクロイツベルクの新しいマクドナルドに出かけてチーズバーガーでも 食べてみようかと思っている。よくあるファーストフードとして普通に食することができるのか、批判的な視線にさらされて喉を通らないのか、いろいろな思いと精神的緊張が混じって消化不良を起こすのか。それはまたご報告することにします。

林 はる芽




Tariq Ramadan: a Pyromaniac Fireman, or la resistance dans la collaboration, a polemic
Siegfried Kohlhammer

タリク・ラマダン―「消防士を演じる放火魔」
ジークフリート・コールハマー

 ヨーロッパに居住するイスラム系移民の「融和」や「統合」が論じられるとき、あるいはまた、宗教間や異文化間の―とりわけ西洋とイスラムの―「対話」や「相互理解」など、有識者が好む耳障りのよい言葉が飛び交うとき、ほぼ間違いなくタリク・ラマダンという名前に遭遇するはずである。同じようなテーマを掲げた宗教団体が主催するセミナーやシンポジウム、英国政府諮問委員会、異文化との対話のためのEU賢人会議、あるいは郊外のモスク、オックスフォード大学等々、タリク・ラマダンは常にそこにいる。宗教誌、カセットテープ、書籍、新聞、プライムタイムのTVトーク番組など、多様なメディアで彼の発言を見つけるのも容易なことだ。

 ムスリムではないヨーロッパ人、とりわけ多くの知識人がタリク・ラマダンをヨーロッパのムスリム社会を代表するもっとも重要な人物と見なしてきた。ヨーロッパでゲットー化の傾向をみせるムスリム社会(パラレル社会Parallelgesellschaften)の扉を開き、対話を通じてイスラムの宗教や生活様式と西洋の民主主義、文化、人権などの諸概念や基本的価値、さらにはEU憲法や法制度との「和解」に導く人物と考えられてきたのである。

 英国の『インディペンデント』紙は彼を「キリスト教とムスリムとの和解にむけてのもっとも明るい希望」であると評価した。2004年には『タイム』誌が選ぶ「世界でもっとも重要な科学者・思想家100人」の一人にも名を連ねている。「ラマダンの業績はイスラムの歴史に刻まれる」と『ル・モンド・ディプロマティック』は賞賛し、「ラマダン教授は世界が認める優れた宗教学者で、さまざまな宗教の相互理解と平和的共存のために貢献している」として、米国や英国の大学からも招聘されている。ムスリムのマルティン・ルターあるいはマーティン・ルーサー・キングと呼ばれるほど、彼の名声は高かったのだ。

「左翼がタリク・ラマダンを作り上げた」

 1962年スイス生まれ、ジュネーヴ在住。ヨーロッパにおけるタリク・ラマダンの成功は、いわゆる「左翼」に負うところが大きい。たとえば、『ル・モンド・ディプロマティック』元編集長アラン・グレシュはラマダンのプロモーター的な役割を演じてきたし、スイス共産党副代表ジャン・ジーグラー夫妻も熱心な支援者であったことで知られる。1993年には、同夫妻らスイスの有力者の支援を得て、彼はヴォルテールの『マホメット』の上演を阻止し―皮肉なことに250年前にカトリック教会が同じ事をおこなったわけだが―一躍有名な人物となる。

 第三世界と連帯するムスリム―タリク・ラマダンは自分について述べるときにこの表現を好んで使う。ラマダンは西洋の「無神論的な物質主義」に冒された消費社会や個人主義と戦うためには、西洋の「左翼」を味方につけることが可能であり、取り込むべきであると気づいていた。事実、多くの左派勢力に――たとえばATTAC 、南北格差や環境問題の活動家、オルタナティブ運動家やNPOなど――イスラムの「解放の神学」には社会を変革する力があると信じ込ませることに成功したのである。その一方でムスリムの聴衆には、左翼と連帯して西洋の物質主義に対する「レジスタンス」を遂行するのだと説明する。グローバル化に反対する彼のスタンスや言説も左翼の「反西洋」的論調と合致した。西洋社会の敵はムスリムの友人となりうる―いわば「敵の敵は味方」という論法である。

 ラマダンを支持する勢力はキリスト教会内にも存在する。宗教間の対話、とりわけイスラムとキリスト教との相互理解に尽力する教会関係者は、ラマダンの言葉を素直に受けとめて「開かれたイスラム」に対話の可能性を見出そうとした。物質主義、無神論、快楽主義、世俗主義(行き過ぎた政教分離)など、今日の神なき西洋の退廃と対決するラマダンの姿勢を支持するという敬虔なキリスト教信者は少なくない。教会内部には、信仰の復権という点においては過激派まで含めた今日のイスラムを見習うべきだと考えている者も多いのだ。さらに、タリク・ラマダンは西洋の「文法」に則って対話者が聞きたい内容を話すテクニックに長けている。それ故、キリスト教勢力にとっても理想的な対話者となったのである。

 第三のタリク・ラマダン支持層は宗教とは無縁の人権運動グループである。ラマダンはヨーロッパに居住するムスリムに対して被害者意識を捨てるように説くが、被害者や犠牲者としての自己イメージを巧みにアピールする術をよく心得ている。些細な批判に対して、「犠牲者としてのムスリム」を前面に押し出すのだ。曰く「このような扱いに私は深く傷ついている。私は対話の精神に導かれてこの場に出てきたのに……」。ラマダンに対する批判は瞬時にイスラモフォビア、クセノフォビア、人種差別などに転化し、醜悪で忌むべきさまざまな「フォビア」撲滅のために努力している人権団体が先を争ってラマダン救済に登場するというパターンだ。ただし、ほとんどの人権活動家はラマダンの思想的立場を理解していない。

 それでも、ここ数年でラマダンを支持してきた多くの人々が彼から離れ、ラマダン批判の声は次第に大きくなってきた。フランスでは2004年だけでラマダン批判の書物が3冊出版された。いずれもキリスト教とイスラムの調停役を自負するタリク・ラマダンの本質を暴こうとするもので、対話を口実にムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)に代表されるイスラム過激派の思想を宣伝しているにすぎない、というのが共通見解である。ポール・ランドー(イスラム研究者、『Le Sabre et le Coran』著者)は彼を「放火魔の消防士」と呼び、ベルナール・クシュネル(「国境なき医師団」創設者、現フランス外相)は「知的やくざ」と呼ぶ。マレク・ブティ(SOS Racism前代表)は「[ラマダンというのは]ファシストだ。その点でル・ペン(フランスの極右政党代表)と同じだ」と歯に衣着せず辛辣な評価を下している。

イスラム原理主義とは何か

 オリヴィエ・ロワもジル・ケペルもイスラム学の分野でともに高く評価されている学者である。ところがラマダンについては、ロワが「タリク・ラマダンはイスラミスト(イスラム過激派、イスラム原理主義者)ではない」と弁護するのに対して、ケペルは「イスラミスト」に他ならないという。二人の正反対の評価は何を意味するのだろうか。

 問題はイスラム原理主義をいかに定義するかである。イスラミストを「テロ行為を計画・実行する者」と定義するならば、もちろんラマダンはイスラミストではない。しかし、ハマス(イスラム同胞団のパレスチナ支部)や重大なテロ事件についての彼の態度は曖昧である。ニューヨークの9.11、バリ島やマドリッドなどの爆破テロについて、彼はテロという言葉を使わずに「(政治的)発言 」と表現することに固執する。これは驚くべき婉曲語法と言わざるを得ない。イスラエルの子どもたちを犠牲にしたテロ事件を批判しながらも「事件発生の文脈をみれば理解できる行為だ」と結論づける。必要に応じて「テロ」を「レジスタンス」と言い換える彼の言動から、テロについての本音を突き止めることはきわめて難しい。しかしながら、2003年5月22日、リヨンの裁判所は「[ラマダンの]説教はムスリム系の若者に重大な影響を及ぼし、暴力行為への参加を鼓舞するものだ」との判断を示した。彼の言動はテロを容認するものだと認められたわけである。

 イスラム原理主義を見極める有効な基準の一つは、「イスラムは一つ」という統一的アプローチにある 。「唯一の、正統なるイスラム」を目指すのだとすれば、どのイスラムを正統なイスラムとするのかという疑問がただちに生じてくる。イスラムの教えは世界各地に広まっていくその過程で、さまざまな宗派と形態に別れてきた。モロッコからフィリピンにいたるまで、各地域に根ざすさまざな文化や制度とともに多様な発展を遂げてきたはずだ。しかし、原理主義はそうした地域性や独自性はすべて排除して、正統なイスラムとして純化されなければならない、千年以上の時を経て発展してきたイスラムの「多様性」は「一つの、真正なる」イスラムに純化されなければならないという立場をとるのだ。したがって、イスラム原理主義はそれ自体において主導権争いという対立の構図をはらむことになる。タリク・ラマダンは女性器切断の儀式や強制婚など、イスラムの特定地域における伝統をことさらに取り上げて、その「独自性」を否定して見せる。さらに、こうした「悪しき」土着性を破棄して純粋なイスラムにまとまるべきだと続ける。純粋で、正統な、一つのイスラムは西洋の価値と共存可能であるかのような印象を与えるが、彼の得意なレトリックの一つに他ならない。

 唯一の正統なイスラムとは、原初のイスラム法を生きていた敬虔なる祖先(サラフ)への回帰によって成就する。この「サラフィスム」こそがイスラム原理主義のもっとも広く浸透している形態であり、ムスリム同胞団はサラフィスムを提唱する強力で重要な団体の一つである。ラマダンの言うとおり、イスラムとは「追憶」なのだ。したがって、今日のイスラムが語る「進歩」とは、地域的・歴史的な影響を受けない原初イスラムへの回帰を意味する後ろ向きの歩みのことである。これが多種多様な形態で存在するイスラム原理主義の原則と言ってよい。正統なる唯一のイスラムとサラフィスム、この二つの基準に照らせば、ラマダンは間違いなくイスラム原理主義者である 。

 1950年代ムスリム同胞団はナセル大統領率いるエジプトなどのアラブ諸国から追放され、皮肉なことに異教のヨーロッパに安住の地を見出した。法制度が整い、人権を尊重する西欧の社会は彼らを受け入れたからである。ムスリム同胞団の主要メンバーであったラマダンの父は自国エジプトでの迫害を逃れて信仰の自由が保証されたヨーロッパの各地で(ミュンヘン、ロンドン、ジュネーブなど)でイスラムセンターを組織した人物だ。とりわけ英国は「ロンドニスタン」と称されるように、イスラム原理主義のベースキャンプとなる。アラブ世界を追い出されたイスラミストにとって、ヨーロッパは最善の場所ではないにしろ、そこに活路を見出したのわけである。

タリク・ラマダンのレトリック

 イスラムがすべてを解決する―ラマダンの祖父が唱え、今では世界中のイスラミストに広まった、このような単純なスローガンをラマダンが口にすることはない。彼はより洗練された複雑な言い回しを好む。しかしながら、彼の著作を読んだり説教のテープを聴いたりすれば、彼もまた祖父の原理主義思想を共有していることがわかる。

 イスラム原理主義について多少の知識があれば、ラマダンがサラフィスムを継承するイスラミストで、ムスリム同胞団に共感している人物であることはすぐに分かるはずなのだ。にもかかわらず、西洋ではそのように見なされることがなかったのはなぜなのか。まず第一に、西洋では大多数がイスラム原理主義についての知識がなく、理解もしていないという事情がある。たしかに、彼自身がイスラエルや米国に代表されるイスラムの敵の死を求めて凄まじい形相で絶叫するようなことはない。ターバンも着用することはないし、あごひげもオシャレにトリミングしている 。時に嫌味だったり威嚇的になることはあるが、だいたいにおいて丁寧で礼儀正しく、その語り口も明快だ。批判や不当な扱いに対して、彼は爆弾を仕掛ける代わりに訴訟を起こすタイプである。西洋社会では法廷で下される判決が剣よりも強いということをよく理解しているのである。しかし、ラマダンが自らのイスラム原理主義的な要素を隠すもっとも卓越した手法は、何よりもまず語彙の選択、レトリック、議論の方法等々、彼の巧みな言語表現にある。それにより、西洋の一般の視聴者や読者は彼のことを「近代化を目指すムスリム」であり、西洋の改革や合理性という概念そして法制度を支持する人物だと思いこんでしまうのだ。

 たとえば、「改革」という概念について。過去から続く問題を理性に照らして新しい解決を見つけようとする行為である―われわれの多くがこのように考えるのではないだろうか。イスラムの「改革」をめぐるラマダンの言説は西洋の聴衆に心地よく響くが、彼にとっての改革はまったく異なるものだ。彼は言う。「改革には合理性的な改革とサラフィスムの改革の二つがある。後者はイスラムの基本に忠実であろうとする改革であり、私はその流れを受け継いでいる」。ラマダンの説く改革とは、歴史の流れのなかで原初イスラムにつけ加えられ、イスラム文化として発展してきたものすべてを取り除き、地域的独自性の背後に押しやられている「正統なる」イスラムに回帰する方法なのである。つまり、西洋で一般に理解されている、新しいものを求める前向きの行為としての改革ではなくて、原理主義者は後ろ向きで過去に戻ろうとする動きを改革と呼ぶ。あらゆる場面で、すべてをイスラム化するように努める―これがラマダンが語る改革や進歩の基本概念だ。彼はまた、西洋の進歩は善悪の判断を含まない「良心なき進歩」だと評して、イスラムの「啓示に導かれる進歩」と対比させることを好む。ムスリム女性のスカーフについても、「改革」の一環として着用を勧める。スカーフはムスリム・アイデンティティの象徴であるだけでなく、女性を男性の視線から守り、性的対象に貶められるのを防ぐ「イスラム・フェミニスム」だというのだ。

 「理性」についても、ラマダンは独自の解釈と西洋批判を展開する。批判性を内包する、独立した思考―このような「理性」は西洋特有の逸脱した解釈だと言う。「あらゆる問題について等しく懐疑的なアプローチをするべきではない」と断言する彼は、西洋ではすべてが批判の対象となりうることに憤慨し、そのような懐疑的な態度は相対主義に行き着くだけだと激しく非難する。西洋的な「理性」は際限のない譲歩と容認しかもたらさず、退廃にいたるとも言う。一方、イスラムの世界では「理性に求められるのは、信仰に何ものかを付加するのではなく、心のなかに信仰の道を見出すこと」である。そして、理性は「唯一の、正統なる信仰(イスラム)」を見出すために利用されるべきで、未知のもの、新しいものを発見するために使われるものではないと結論づける。

 イスラム世界では、イスラム国家を「イスラムの家/平和の家」非イスラム国家を「戦争の家/布教の家」として区分する伝統があるが、ラマダンは後者の非イスラム国家を「Dar al-shahada(証人の家)」と定義することを提唱する。無害な呼称に聞こえるが、「shahada」はイスラムに回心した者の信仰の告白、神の栄光のために死する殉教をも意味する。したがって、shahadaを実践する者はイスラムのために殉教を厭わない兵士(shahid)でもあるのだ。ラマダンも武力闘争としてのレジスタンスについて次のように言明している。「shahidとは、直訳すれば『証言する者』だが、レジスタンスを最後まで戦い抜く者のことである」。西洋社会でムスリムとして生きることは、何よりもまず西洋の文化的な攻撃や侵犯行為に対するレジスタンスであると規定するラマダンの思想はすでに述べたとおりだ。「イスラムの世界では、抑圧や専制と対決して自分たちの生活や土地を守るために殉教が相変わらず重要な位置を占めている。これ(殉教)こそが証人としての究極のおこないであり、信仰の誠と深さの証となるのだ」。「証人」をめぐる彼の思想がイスラム過激派と同質であることは明らかだ。

 在カイロのオリエント学者ジャック・ジョミエ師によれば「ラマダンはイスラムを近代化したいのではない。近代化そのものをイスラム化したい」のだ。事実、ラマダンはイスラム的な近代化と西洋の近代化は根本的に異なると執拗に繰り返し、彼らしいダブル・スタンダードを披瀝する。すなわち、西洋の聴衆には「近代化」を定義せず、支持する立場を示しながら―西洋の文化を支持するわけではないという留保条件はつけるが―ムスリムの聴衆を前にすると西洋の近代化をイスラム的な近代化の名の下に激しく非難する。

西欧が期待したものとラマダンの真意

 タリク・ラマダンが西洋社会で賞賛と敬意を享受できたのは、西洋とイスラムとの仲裁者、調停人あるいは統合者という役割を担う人物であるかのように思われたからである。実際の彼はそのような役割にはまったくの失格者であるのだが。いずれにせよ、イスラム系移民に対して西洋の社会や文化、経済活動に市民として積極的に参加するよう促し、西洋とイスラムの共存と相互理解に尽力する人物というイメージが讃えられたことは事実である。「犠牲者という自己認識を捨てよ。[新たな祖国となった]西欧の社会に市民として積極的に参加せよ。そして、自分たちの権利を主張せよ」と説くラマダンは、ムスリム移民に西洋社会への前向きの参加や統合を呼びかけていると理解されたのである。

 移民が新たな市民として社会に参加し、統合が実現するためには、移民自身と受け入れ国双方に何らかの変化や妥協が必要となるのは当然のことである。たとえば、ムスリム系の移民は彼らの信仰やイスラムの文化を捨て去ったり忘れたりする必要はまったくないが、受け入れ国の法律や社会の基盤を成す価値とともに平和的に共存するためにはある程度の譲歩や新たな解釈が必要となる場合もあるだろう 。ところが、ラマダンの「市民として積極的に社会に参加せよ」という呼びかけは、ムスリムのアイデンティティを一切変更しないという前提から出発している。そのうえで、異教徒が支配する西洋の「文化的植民地主義」あるいは「精神性への侵略」の犠牲になってはならない、ムスリム共同体やムスリム・アイデンティティを固守し、信仰とその実践についてはいかなる変更も妥協も拒絶せよと説く。たしかに、彼は受け入れ国の憲法や法を遵守するようにも説くが、イスラムは例外で、イスラム法と抵触する場合には「レジスタンス」の権利を主張する 。こうした彼のイスラミスト的なスタンスはフランスにおけるスカーフ問題やムスリム女性と非ムスリム男性との結婚に関する問題で明らかになっていく 。さらに、ヨーロッパで広く認められている同性愛についてもイスラムの名のもとに異を唱える。イスラムにとって、同性愛はそれ自体不自然で、神の前にある人間として道に外れた行為だという。イスラムの価値に固執してこのような態度を崩さない彼との対話が成立するはずがない。

 タリク・ラマダンが個人より共同体を重視していることは明らかだ。西洋社会で生きるムスリムに対して彼は「西洋の価値とは距離を置いて、信仰をより堅固なものにするためにムスリム共同体の一員として生きるべきだ」と教える。西洋において自由と人権の基盤となる個人主義はかくして否定されるのである。「個々人に過度の自律性を与えてしまうと個人主義をもたらすことになる」と危惧する発言からも明らかなように、ラマダンは「経済主義、帝国主義」とともに「個人主義」にも強く反対する人物なのである。

西洋をイスラム化する

 ラマダンが東西の調停人を自認するならば、「西洋化」という表現をもっぱら「西洋化した(世俗化した・近代化した)ムスリム」に対する軽侮と非難のために使うのはなぜなのか。西洋化したムスリムとは、「ユーロ・イスラム 」のために努力する人々のことのはずだが、ラマダンにとって彼らはもはや真正なるムスリムではなく裏切り者なのだ。「西洋で暮らすムスリムについて私が危惧するのは、彼らが神にではなく、『西洋』にだけ応えようとしていることだ。なによりも神に応えなくてはならないし、これが西洋に示すべきわれわれの基本的立場だ」。このようにヨーロッパのイスラム系市民に語りかけるラマダンは寛容や譲歩、対話の精神からほど遠い人物だと断定せざるを得ない。

 ベルリンでおこなった説教で、ラマダンは「イスラム文化への愛着と出身地エジプト の文化への愛着とは明確に区別している」と前置きしたうえで、後者のエジプト文化については、西洋の文化的枠組みのなかで摩擦が生じないかぎりにおいて自分自身の文化として保持すると発言したが、イスラム文化と西洋文化との関係について触れることはなかった。すなわち、エジプト文化についての妥協はあり得るが、イスラムについては一切妥協しないということなのだ。彼の「開かれたイスラム」は虚しい約束でしかない。彼が目指しているのは、ムスリム系移民の「西洋化」でも統合でもない。西洋をイスラム化すること、それこそが彼の目的なのだ。

 西洋をイスラム化しようとするラマダンの意図は「政教分離」をめぐる言説にもうかがえる。彼によれば「政教分離[la苗it氏n」はキリスト教社会でのみ有効な概念で イスラムとは関係ない、あるいはまた、はフランスの歴史の一部で、その意味でもムスリムとは無縁の概念だと言う 。さらに、政教分離は「破廉恥な無神論思想」「植民地主義の残滓」であり、イスラム系移民のためにフランス国内法を変えるべきだとまで主張する 。

 「同化」もまたラマダンにとっては忌むべき言葉で、彼の教え、すなわちイスラミストの思想から離れていったムスリムを指し示すためにのみ使われる。彼は「同化」の意味をはっきり定義せずに発言している。すなわち、国家が強制する「同化」については、ムスリムだけでなく西洋においては圧倒的多数の市民が反対するだろう。しかしながら、個人の自由意志によって移民先の社会の一員になろうとする行為としての「同化」もある(たとえば、ポーランド出身ジョセフ・コンラッドと英国、英国人ジャック・フィルビーとサウジアラビアの関係など)。ラマダンは二つの形態をごちゃまぜにしたまま、「同化」に対して敵意を顕わにする。彼にとって西洋の社会は堕落した社会で、「神、道徳、義務、慎みはその意味が形骸化し、日常からも失われている。今では自由と快楽しかない」。この一文からも、自由に一切の価値を認めない彼の立場がよくわからる。いずれにしても、堕落した西洋にはいかなる同化もあり得ないということだ。

西洋の「病」

 ラマダンが西洋に対して否定的見解を抱くことはもちろん自由である。問題はラマダンのような考えをもつイスラミストは、イスラムと西洋の調停人にはなり得ないし、協調や統合を促す役割にはまったく不適格だということだ。ムスリム共同体のなかで信仰を深め、社会から隔絶された状態で共同体を一層「イスラム化」すること――これが彼にとっての「統合」の前提条件なのであり、その条件に反するものは一切受け入れることはないのだから。

 タリク・ラマダンは思想家として重要なのではない。注目すべき点があるとすれば、心地よい哲学的言辞の背後にイスラム原理主義の思想を巧みに隠す、その言葉を操る才能だけである。ただし、彼はある「徴候」として重要だ。それはイスラム世界ではなく、西洋の「病」の状態を示すものだ。イスラム、ムスリム移民そしてイスラム原理主義に対する無知と幻想、楽観的な展望を抱き続ける西洋の「病」である。

 1991年サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』の翻訳者である五十嵐一が殺害された直後、在日パキスタン協会の代表は「ここ[日本]はムスリムの国ではないから、この事件は犯罪として処理されるが、イスラムの法の下ではまったく問題とならない。今日、このニュースを喜びをもって受けとめ、協会ではお祝いをしているところだ。皆、本当に喜んでいる」、さらに続けて「日本人は獣と同じで外国の宗教を敬うことをしない。彼らもこの事件から教訓を学ぶべきだ」と述べている。まさにその通り、正鵠を射たコメントだ。日本人は宗教の危険性、そして宗教がもたらす困難な問題、解決が絶望的に困難な問題について真剣に考える時が来ているのではないだろうか。




 
ところで、ジークフリート(夫の名前)が最近書いたエッセイをウェブサイトで読むことができます。ご参考まで。こちらはこちらで物議 をかもしているようで・・・。/芽


Siegfried Kohlhammer
社会評論家、現在ベルリンに在住しドイツ国内の新聞などに寄稿、元横浜国大ドイツ語教授
林はる芽さんのパートナーでもある

http://www.online-merkur.de/seiten/lp200708b.php