26年 一橋大学法科大学院 未修 合格再現 Tさん

 振り返るとまだ洗練する余地が多分にあると感じたところです。 この反省は、これから始まる司法試験の論文試験に活かしていければと思います。
 合格再現答案の中身についてですが、細かな表現自体は本番と異なるところが少なくないかもしれないものの、論理構成や文章内容といった骨子となる内容は、再現できていると思います。この再現答案が次に続く皆さんのお役に立てられれば嬉しいです。

問1
 
 ここでの筆者の問題提起とは、日本におけるセクハラの理解が不十分である可能性を指摘し、その概念の再考を促すことである。 そもそも、セクハラという法的概念は、個々の女性が経験してきた不快な性的言動を統一的視座から分析するため、新たに生み出された概念枠組みであった。つまり、女性を取り巻く複雑な関係性に着目することで、男女の間にある不平等な権力関係と不当な性的要求とが固く結びついている現実を直視し、社会に存在する性差別の構造を批判することが試みられたのである。このような問題意識のもと、アメリカでは、公民権法第七編の「性による差別」の禁止規定を足掛かりに、セクハラに関する議論が発達してきた。したがって、セクハラを性差別の一形態として捉えることには、それ相応の理由が存在し、両者は、法制度上の形式的な繋がり以上の密接な関連性を有しているのだ。このように、セクハラ問題の分析を通して、深刻な社会的不平等の仕組みに迫った真摯な議論の集積こそ、「セクハラという概念に賭けられた賭け金の重さ」が意味するところである。 しかし、日本では、アメリカでの深い議論の全貌を捉えられたとは言い難い。なぜなら、セクハラと性差別との関連性を単にアメリカの法制度上の特徴だと考えているからである。たしかに、合衆国法と日本法の相違は存在するが、これを理由にセクハラ概念から差別の観点を捨象してしまうと、セクハラという言葉が生み出された背景を無視することになる。つまり、セクハラの語に込められた不正な社会構造に対する批判の姿勢を忘却し、セクハラ問題の本質を理解できないのだ。現に、日本法が差別禁止法をもたないので、セクハラを人格権の侵害として処理しており、個人の性的行動に関わる問題と考えている節がある。もっとも、このアプローチに社会的差別の視点を持ち込むことも可能であり、日本にはそのような現状に変化を加えた考察が必要なのだ。

問2

 「セクハラに対する法的アプローチ」には、人格権アプローチと性差別アプローチの2つがある。前者は、セクハラを個人の性的自由を阻害する行為と捉え、民法709条の一般規定を根拠に、裁判官の柔軟な法運用の下で、加害者の人格権侵害に対する不法行為責任の認定を要求するものである。これに対して、後者は、セクハラを性差別として捉え、差別禁止法に基づき、被害者と他者との関係性に着目して性差別の存在を論証することで、セクハラの認定を求める。もっとも、両者のアプローチは、排他的なものではなく、総合して考えることも可能である。 その性差別アプローチにおける性差別の考え方には、「2つの見方」がある。まず、「差異説」は、男女間に自然発生的な差異が存在することを前提に、その差異を除く同じ状況の範囲で異なる扱いが存在することを恣意的な差別とみなす。そのため、両性間の違いから合理的な区別であると認定することもある。次に、「不平等説」は、生物学的特徴には社会的意味が付与されているとして、この人為的な社会的性差が女性にとって不平等な結果を生むと認められれば、男女間の自然発生的な相違に基づく区別であろうとも、差別であるとみなす。もっとも、両説は、セクハラが雇用上の性差別であり、経済的不平等と性的な不平等が相乗的に強化しあう関係だとする点で共通し、各々がもつ性差別の現実の捉え方を総合することで、女性性の社会的意味全体の明確化が可能である。 しかし、このような性差別アプローチは、妥当でない。なぜなら、性差は、全て社会的に構築されたものであり、そこに固定的・本質的性質を見出すことができないからだ。たしかに、生物学的な男女の定義が可能に思えるが、実際は、科学技術の進展により、画一的な2元的分類など不可能であり、性別にも相当な多様性があると判明している。したがって、バトラーの言うように「セックスは常に既にジェンダー」であり、社会的性差である以上は、女性が男性に対して一方的な従属関係にあると固定的に考えることも不適当だ。そもそも、セクハラ成立に不平等な権力関係を求めると、部下から上司や同性同士での性的嫌がらせをセクハラだとみなせなくなるが、これは不合理だ。 そこで、セクハラは、広く性に関する不当な要求だと定義すべきである。その時々の人間関係を鋭く読み解きつつも、労働者の意に反する性的言動にがセクハラだとすべきなのだ。

以上