26年 一橋大学法科大学院 未修 合格再現 Tさん |
振り返るとまだ洗練する余地が多分にあると感じたところです。 この反省は、これから始まる司法試験の論文試験に活かしていければと思います。 問1 問2 「セクハラに対する法的アプローチ」には、人格権アプローチと性差別アプローチの2つがある。前者は、セクハラを個人の性的自由を阻害する行為と捉え、民法709条の一般規定を根拠に、裁判官の柔軟な法運用の下で、加害者の人格権侵害に対する不法行為責任の認定を要求するものである。これに対して、後者は、セクハラを性差別として捉え、差別禁止法に基づき、被害者と他者との関係性に着目して性差別の存在を論証することで、セクハラの認定を求める。もっとも、両者のアプローチは、排他的なものではなく、総合して考えることも可能である。 その性差別アプローチにおける性差別の考え方には、「2つの見方」がある。まず、「差異説」は、男女間に自然発生的な差異が存在することを前提に、その差異を除く同じ状況の範囲で異なる扱いが存在することを恣意的な差別とみなす。そのため、両性間の違いから合理的な区別であると認定することもある。次に、「不平等説」は、生物学的特徴には社会的意味が付与されているとして、この人為的な社会的性差が女性にとって不平等な結果を生むと認められれば、男女間の自然発生的な相違に基づく区別であろうとも、差別であるとみなす。もっとも、両説は、セクハラが雇用上の性差別であり、経済的不平等と性的な不平等が相乗的に強化しあう関係だとする点で共通し、各々がもつ性差別の現実の捉え方を総合することで、女性性の社会的意味全体の明確化が可能である。 しかし、このような性差別アプローチは、妥当でない。なぜなら、性差は、全て社会的に構築されたものであり、そこに固定的・本質的性質を見出すことができないからだ。たしかに、生物学的な男女の定義が可能に思えるが、実際は、科学技術の進展により、画一的な2元的分類など不可能であり、性別にも相当な多様性があると判明している。したがって、バトラーの言うように「セックスは常に既にジェンダー」であり、社会的性差である以上は、女性が男性に対して一方的な従属関係にあると固定的に考えることも不適当だ。そもそも、セクハラ成立に不平等な権力関係を求めると、部下から上司や同性同士での性的嫌がらせをセクハラだとみなせなくなるが、これは不合理だ。 そこで、セクハラは、広く性に関する不当な要求だと定義すべきである。その時々の人間関係を鋭く読み解きつつも、労働者の意に反する性的言動にがセクハラだとすべきなのだ。
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