【総合考査1】
第一に「国家に須要」という語句は資料1と2のみに含まれているが、資料4では「社会の発展に寄与」とのより広い範囲の語句に替わっている。第二に「人格」や「道徳」との語句は資料2と3のみにあり、資料4では大学自体の自主性に関する記述が含まれている。第三に、「広い知識」や「教養」に関する記述は資料3と4だけにあるが、専門教育と研究に関する記述は全ての資料に一致して含まれている。
まず、専門教育と研究は、いつの時代も要求される大学の基本的使命であるとわかる。また、「国家」のためにとの記述が第二次世界大戦をきっかけに消えたことから、戦後はナショナリズム的大学観を弱め、広く世界的発展に貢献することを期待されるようになったのだろう。同様に「教養」も戦争への反省から、社会的批判的思考を養うためだと推測できる。さらに人格・道徳教育は、明治時代の「富国強兵」的な短期的発展を目的とする中では重視されなかったが、大正時代以後は長期的発展を見据えて重視されるようになったのだろう。
【総合考査2】
およそミルの言う通りで、人間は基本的に善だと思う。一方で、人間が邪悪な性質を持っていることもまた確かであるから、他者の権利を侵害しないように刑罰を与えて社会の秩序を保つことも大切だ。だが、それだけでは邪悪な性質の根本的な解決にはならないし、人間は邪悪だと言う考えが広まれば、不信感ばかりになってしまうだろう。それよりも本当に大切なのは、邪悪な性質の発現を出来るだけ抑えるために、互いに支え合うことだ。それは多様性を受け容れ、孤独な人をなくすことである。だから、多様性の尊重によって社会をより良くすることが出来るのだ。
さらに、秩序が厳しすぎては秩序の誤りを発見・指摘する自由もなくなってしまうので、刑罰による支配は、最小限に留められなければならない。例えば、同性愛に刑罰を科す国が存在するが、これは重大な人権侵害である。しかし、もしも同性愛者の擁護にも刑罰が科されていたら、謝りを指摘することも許されず、改善されることは決してなくなってしまうのである。
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