問1 (15行以内)
上野は、日本の戦後世代が戦争責任を引き受けるにあたって、自らを安易に日本国家と同一化することを懸念している。というのも、戦後世代のこうした態度は、民族や国家カテゴリーの復活を招くおそれがあるからだ。そもそも、戦後に生まれた若い日本人は、直接戦争に対する加害責任を負っていない。にもかかわらず、自らの罪のように感じてしまうのは、戦争犯罪を行った国家と自らを同一化するためである。こうすることは、民族や国家というカテゴリーの絶対化を引き起こしかねない。つまり、戦争問題を民族や国家といったカテゴリーに解消させ、被害の「リアリティ」が抑圧される危険性があるのだ。このような問題に対処するために、上野は一般的カテゴリーや共同体言説が個人を代表することに対し抵抗すべきだと主張する。
こうした上野の考えに対し、著者は共感を示すものの、全面的に賛成しているわけではない。なぜなら、戦争責任の問題では「日本人」としての意識が必要だと感じているからだ。上野の考えに従えば、戦後世代は普遍的な世界市民として日本の戦争問題に応じれば良いことになるだろう。しかし、それでは日本が犯した戦争犯罪という歴史の負荷に対する感覚が欠けている。「日本」の戦争責任を引き受けるには、むしろ「日本人」として戦争問題への義憤と責任を感じることが求められているのである。
問2 (字数指定なし)
著者は、戦争問題に対して「日本人として謝罪する」ために、「無意味な死」を遂げた自国の死者を悼む必要があると主張する。なぜなら、「日本人としての羞恥」を感じるためには、自国の死者を切り捨てたという自覚によって、戦前と戦後の共同体に連続性を作り出さなければならないからだ。
そもそも、戦後世代が戦争に対して謝罪するには、「羞恥」感情に基づき過去を引き受けなければならない。たとえば、ドイツの戦後世代は、自国の過去を恥ととらえることで、ドイツ人としての自負を獲得している。それに対して日本では、別の方法が必要になる。というのも、日本では戦前と戦後で共同体が断絶しているからだ。平和な日本社会は、間違った理念を体現していた戦前の共同体を否定し、人々の死を無意味なものとして切り捨てることによって実現した。このままでは、他国への謝罪はおろか、自国の死者でさえ悼む基礎がない。そこで、自国の死者を裏切ったことを自覚することで、彼らと連続した「われわれ日本人」という自負を構成する。そうすることではじめて、「日本人としての羞恥」を感じ、過去の戦争に対して「日本人としての謝罪」が可能になるのである。
このような著者の主張は、戦後世代が戦争責任を引き受ける基礎を提供するという意味で評価することができる。戦争による自国の死者について認識することで、戦後世代は自分が戦前の人々と同じ「日本人」であることを自覚する。そうすることで、なぜ自らが戦前の責任を負って謝罪するのかが明確になるのである。仮にこのような下地がないまま戦後世代が謝罪したとしても、中身の伴っていない表面的なものにすぎないといえるだろう。
ただし、著者の考えを追及すると、かえってナショナリズムの加担に繋がり得るという問題点がある。戦争の死者を悼むことで、戦後世代が戦前世代との一体感を感じ、「日本人」としての実感を得るのは確かだろう。だが、これはかつて戦争を起こした日本国家と自分を同一視することに等しい。つまり、上野が懸念したように、戦争を「日本人」あるいは「日本国家」という枠でのみ捉え、結果として過去の戦争の事実を把握できないおそれがあるのだ。 |