問題文は大学側でも公開しておりません。
問題1(これは下書き通りです。)
これらの解釈とは、人間の尊厳をエンパワーメントとしての人間の尊厳と捉える解釈と、制御としての人間の尊厳と捉える解釈である。前者は、人間の尊厳によって示される自由を強調し、各個人に自己の身体および人格についての決定権を委ねる、とする。これは自己決定を重視する考え方である。それに対し後者は、自己決定により人間が道具化されてしまうのを恐れ、人の生命形態の固有かつ神聖な価値を重視する。これは、人間の尊厳により白己決定を制約する考え方である。
この両者は通常協調する。なぜなら、他者加害のない限り個人が自己決定に基づいて行動することは、人間としての共同体の利益にも資するからである。例えば、市場において個人が自己決定に基づき行動することで市場効率性を高め、人類の発展にも資する。
しかし、生命倫理の分野では両者は対立する。なぜなら、個人の自己決定が優生学的区別を生んだりし、共同体という他者を加害してしまうからだ。また同様に、共同体の利益を重視すれば、自己決定を阻害することになる。ケリーの例でも、白己決定を優先し損害賠償を認めれば、優生学的考えを生むことになる一方、人類の価値を重視してケリーの損害賠償を認めなければ、ケリーの自己決定を無視することになる。このように生命倫理の分野では両者の守る利益が対立し、ゆえに調整が必要なのだ。
問題2
まず、傍線部の立場と対比される、結果状態の中に権利を囲める立場とは、人々の権利は社会の権利侵害を最小化する範囲でのみ囲められる、とする権利功利主義的立場である。この考えは一個人の人格が特別だということを無視する、という点で、人間を道具のようにあつかってしまう。したがって、この立場からすればケリーが生まれない権利を主張することで優生学思想を生み、社会という結果を傷つけてしまうため、「生まれない権利」を主張することはできない。
それに対し、傍線部のように権利に付随的制約を負わせる立場では、権利は付随制約を犯さない価囲で認められる。ここでは制約を犯さなければ権利が存在するので、人々は社会のための道具ではなく目的である。さらに、付随制約とは他人に対する物理的な攻撃をしてはならない、というもので、権利功利主義のように社会全体の善という不透明な理由により個人の権利が制約されることはない。
したがって、傍線部の立場からすればケリーが生まれない権利を主張することは認められる。なぜなら、ケリーが損害賠償を支払ってもらい、それが優生学的思想を生むと批判を受けることがあっても、思想だけでは他者を物理的に加害していないからである。そのため、付随制約を破ることなく、ケリーは賠償金を得ることができる。
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