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問題1
筆者1は、個人は公平性の原則のもと負担すべき労働と犠牲を負担していれば、他人の利益を損なわない限りにおいて自己決定の自由を有していると説く。
この主張は「他人に迷惑をかけない限り、個人は何をしても許容される」という危害原理の主張であり、個人や社会は別の個人に対して不当に干渉すべきではない、という点において、他人に関心を持たない利己的な考えだと誤解される可能性があると筆者1は述べている。しかし筆者1はそれは筆者の主張の一側面に過ぎないと主張している。すなわち個人は一人では生存し得ず、個人の行動は良きにつけ悪しきにつけ、他の個人の行動を規定しているからである。そういった意味で他者に無関心ではいられないからである。また筆者は個人が個人に属する部分においての自己決定を侵害してはならないと主張しており、多くの具体例、例えば宗教の自由などに触れ、他者の権利を尊重することが互いの権利を保護する上でも極めて重要であり、また社会には無制限の権利があり、これら個人や社会の不当な干渉を回避するためにも相互に監視する必要があると説いている。これらのことから筆者1は危害原理が他者に無関心な利己的な見方であるというのは誤解であると主張している。
問題2
スカーフ事件の発端となった三人の少女の主張は「教育の場においてスカーフを身に着け、自己のアイデンティティを主張することは他人を害してはいない。許容されるべきである。」という危害原理に基づくものであった。
一方でフランスは市民革命の中で教会から権利を勝ち取ってきた歴史を有しており、教育の場を含む公共空間から宗教的な要素を厳格に排除している。当初はこの二つの主張の対立であった。すなわち国家の非宗教性(ライシテ)と危害原理に基づく個人の自己決定の自由の対立であった。
「スカーフを着けることは誰の権利も害していない。」というイスラム女性デブザの主張も、当初は筆者1の主張する危害原理に基づき世俗主義を批判していた。しかし彼女の主張はさらに根源的なもの、すなわちフランスのライシテよりも居留民の宗教的自由を含む平等の権利が尊重されるべきだと発展してゆく。これはグローバリズムの流れの中、様々な宗教や文化を有した個人が社会を構成してゆく多文化主義の思想であり、筆者2は、革命期における徹底した宗教的要素の排除の思想に基づく「美徳の共和国」ではなく、多くの文化の共存を目指す「寛大な礼節の共和国」への移行が必要ではないか、と主張している。そのため多文化主義的民主制においては政治的な対立とその学習は重要であり、法で制限すべきではないとも述べている。
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