2010年10月
10/27

正義論の歴史的必然性

公共の哲学を読む―キムリッカ」の講座が始まって、もう一ヶ月になりました。功利主義の原理からはじめて、リベラリズム、リバタリアニズム、マルクシズムと内容が進んでくるにつれて、参加者はしだいに増えてくる。ロースクールの受験者だけでなく、学生・金融業・エンジニアなど多士済々。「政治哲学」なんて、ちょっと前まではマイナーだった分野に、これほど皆が興味を持ってくれるなんて、ちょっとびっくりですね。

昨日も、編集者の方が打ち合わせに来ると、今私が書いている本の話もそこそこに、「例のキムリッカの講座はどうですか?」と聞いてきます。「小さな講座だけど、結構、参加者が多い」というと驚いています。もちろんNHKでやったサンデルの講義の影響もあるのだろうけど、それだけでは受験のためではない講座に、これだけ集まるのは理解しにくいというのです。「なんで、そんなに人気があるのでしょうか?」

私の見方はハッキリしています。今まで、日本はすべての問題を「成長」で解決しようとしてきたけど、それがうまく行かなくなったから「正義」が注目されるようになったと思う。多少の不平等があったり、格差が開いたりしても、皆がそれなりに満足していたのは、日本経済が成長して、たとえ下の階層でも、何かが変わって豊かになるのではないか、と感じていたからです。つまり、限られた資源をどう使うか、という政治論より、限られた資源をどう増やすか、という経済論が問題設定の中心にあった。だから、今でも経済学者たちは「どうしたら、日本経済を好景気に出来るか」という議論を延々としている。でも、この前提は崩れました。日本はもう「成長」することはあり得ないのです。

それを明瞭に示してくれたのが、今話題の『デフレの正体』です。これは、日本の「好況」「不況」と言われるものの正体が、実は「人口ボーナス」、つまり、戦後急速に人口増加した人々が作りだした一時的需要なのだと主張しています。この推測が、実にデータと符合する。もし、これが本当だとすると、少子化が進む状況で、需要不足は根本的には改善しないので、「成長」では問題解決できないということになる。

つまり、全体のパイを大きくすることで、それぞれの取り分を増やし、満足を生むことは期待できない。としたら、誰かの取り分を大きくするには、誰かの取り分を少なくするしかない。誰かが満足すれば、誰かが不満を持つ。社会全体がゼロサムゲーム化するわけ。実は、これこそ、政治固有のフィールドなのです。その意味で、日本人は、おそらく戦後はじめて政治問題に直面したのだと思う。

一度、日本は「弱者救済」という方向を取りかけました。しかし、これも経済成長して、その余裕がかなり存在したので出来たことです。公正とは何か、よく考えた上でやったのではない。だから、成長が鈍ると、とたんに「弱者批判」「既得権批判」というバックラッシュが始まりました。英米のレーガノミクスやサッチャリズムの影響が10-20年ほど遅れて影響し、ネオ・リベラリズムの嵐が吹き荒れた。規制緩和すれば、生産性が上がり、景気が良くなると期待した。しかし、それが絵に描いた餅と分かると、とたんに「格差問題」が噴出する。バックラッシュのバックラッシュですね。

もうこんな繰り返しは止めた方がよいのではないか、と思います。日本はもう成長しない。立派な大人の時期に入ったわけです。後は、覚悟を決めて、持っているものでやりくりするしかない。その「やりくり」の原理が、政治哲学の言う「正義」の問題なのです。納得できる「やりくり」は、自分で構成するしかない。

戦後の歴史を見てみると、日本はまずなりふり構わず経済の復興を目指した。そのためには、多少の犠牲も「全体のため」と切り捨てられた。これって功利主義の論理ですね。公害などが最初のうち無視されたのも、「最大多数の最大幸福」のため。ところが、よく考えると、その犠牲がとんでもないことが分かる。そこで、「資本主義は非人間的だ」というマルクス主義に則って、軌道修正が図られた。日本の福祉政策なんて、ほとんど左翼とリベラリストが結託することで成立した。ところが、不況にはいると、福祉政策は「資本主義を歪めた」と批判され、「規制緩和」して市場システムに期待した。これは、リバタリアニズム的方向かな? でも「頑張る人が報われる」という成果主義的原理は、あっという間に消え失せ、また一回り。でも、もう左翼の信頼はない。 

こうやって眺めると、日本の状況は「納得できる正義を模索していくプロセス」としても意味づけられる。現在はどうか? 私はロールズの言うJustice as Fairnessの理念がもう一度見直される時だと思う。「最も恵まれない人のためになる不平等なら許される」。日本社会が持続して行くには、この格差原理を基準にしていく他ない。でも、それが「常識」となって受け入れられるには、まだまだあれこれ議論が沸騰するでしょう。でも、それが政治哲学的な思考が注目される土壌になっているのは間違いない。

およそ、そんな流れを編集者の方にお話ししました。「経済の発展とサンデルたちの議論を結びつけるのは、はじめて聞きました」と言われたけど、ある経済誌では「経済学も正義のことを考えねば」という気運が高まっているとか。思った通りですね。その意味で、「公共の哲学を読む」講座は、日本社会の喫緊の問題とつながっているのかも知れません。これからの展開が楽しみですね。

10/3

小室直樹さんのご冥福を祈る

政治学者小室直樹さんが亡くなった。享年77。残念の一言。私にとっての「師」と言えるのは、小室さんと竹内敏晴なのだけど、二人とも鬼籍に入ってしまった。時代は変わる。小室先生とは大学で出会った。一応、東大の社会学科といえば、優秀な学者が集まっているはずなのだが、その講義・ゼミのあまりのつまらなさにガックリした時だった。学問的な厳密性や論理性、あるいは調査の徹底性がまったく感じられない。

3年次に学科に進学したとき、最初にやらされたのが「横浜・川崎地区のエリートの意識調査」。市会議員とか、住民運動のリーダーとか、いろいろな種類の人に会えるのは楽しかったが、質問項目は恣意的だとしか思えなかったし、集計結果が面白いとも思えなかった。こんなことに血道を上げている社会学者って何なのか?

そんなとき、唯一学問の香り高い講義をしていたのが、小室先生のゼミ。毎週一回、社会学科研究室の地下室書庫で十何人かが集まって、高木貞治の解析学をやり、丸山真男を読み、ヒックスの経済学を読む、というまさに「学際的」な集まりが行われていた。丸山真男の解釈も1ページを2時間ほどかけて読み解いていく。一行の中に、これだけの意味が含まれるのか、と驚嘆させられた。

ゼミ生の中には、のちに有名となった人が何人もいた。たとえば、理論社会学者の橋爪大三郎。政治評論家の副島隆彦。私とは時期が違うけど、宮台真司もいたらしい。

しかし、もっと驚いたのが、小室さんが東大の教授ではまったくないこと。助教授でも助手でもない。いったいどんな資格で大学の部屋を我が物顔に占拠して講義しているのか? 聞くところによると、小室さんの学識に驚嘆した社会学科の教授が、部屋を提供するのを認めたのだとか。当時「大学教授の家庭教師」とも言われた面目躍如。

生活は質素そのもの。東大の寮の一室に黒ネコと共に暮らしている。服装も全く構わない。夏にそばに寄ると、ちょっと匂いがしそうなほど。しかし、学問を語らせると何時間も喋りまくる。京都大の数学科を出て、大阪大の経済学の大学院に行き、その後マサチューセッツ工科大学のサミュエルソンの元で学び、東大法学部で博士号取得。文系も理系も日本もアメリカもお構いなし。今の学者志望の若者たちが、学会での業績を上げること、指導教授との関係を良好にすること、大学でのポストを得ることに汲々としているのと比べると、学問的武者修行を実践しているというか。スケールアウトしている。

ただ、その結果として……食えない。小室ゼミも社会学科の学生が沢山参加しているけど、まったくのボランティア。後は通産省だか法務省だかの新入り官僚研修所の講師をしていたらしいが、定職ではない。研修所での講義は見事で、毎回拍手喝采の嵐らしかったが、貧乏なことに変わりはない。

学者とは、中世以前は僧侶monkであったという。その意味からすると、小室さんは伝統的な「学問僧」の系統に連なる存在だろう。学問を立身出世の手段とするのではなく、僧院の中で黙々と神と真理に仕える。生き方と学問が一緒になっている。まさに純粋な「賢人」。当然、学生からは多大な尊敬を集めていた。東大教授の中には、それを嫉妬したり、嫌ったりしていた人もいたらしい。

私は、結局、その生き方に深く影響された。やりたいことのためなら、妥協しないで骨身を惜しまないでひたすら続ける。そのうちに道が開ける。小室さんは『ソビエト帝国の崩壊』を書き、マックス・ウェーバーの理論を応用して、ソ連崩壊を10年以上前に予言し、ベストセラー作家になった。彼は「生活レベルを上げちゃダメだよ。いったん上げたら戻れなくなるからね」といつも言っていた。ベストセラー作家になっても、生活はたいして変わらなかった。

私は、彼の書いたものでは『痛快!憲法学』と『天皇恐るべし』がすごいと思う。とくに、後者では、社会学的に言うと、天皇はキリストと同型であるという議論を展開していて、見た目の違いに惑わされず、どこまで遠くに理論が到達できるか、ぞくぞくするような快感が味わえる。また、前者は、「近代憲法」は国家に対して国民が突きつける要求であるというロック以来の概念を明確にし、読売新聞の憲法改正案などに代表される俗流の道徳的憲法観を一掃した画期的な憲法論であった。

この2つに代表されるように、どんなに奇矯に見えても、彼の議論には学問の深い理解という筋目が一本入っている。だから、政治に対しても、彼は真理を忠実に適用した。たとえば、ロッキード汚職の疑いをかけられた田中角栄元首相を敢然と擁護した。この根拠としては、マキャベリ『君主論』以来の近代政治学の理念「政治家の使命は国民を幸福にすることだ。それ以外はどんな悪い性質・性格であってもO.K.」という思想がある。

日本社会は、これを理解しないばかりに、すぐれた能力を持つ政治家を沢山葬って、国益を害してきた。あげくの果てには、政治資金規正法などをむちゃくちゃ複雑にして、検察に些細なことで政治家や官僚をいつでも告発できる権限を与えた。鈴木宗男も村木厚子の騒動もみな同根。ニューズウィークに「日本政治は疑惑騒動に狂っている」とまで揶揄されたのも仕方がない。今、振り返ってみれば、小室さんの主張が正しいことがよく分かるが、当時、マスコミは彼をパージするばかりだった。そのツケが今回ってきているのに気がつくべきだろう。

日本社会も世界も彼の予言したとおりに動いてきた。今、話題になっている中国との関係もそうだ。彼は、中国社会の基本は「厳格な父系制度」であると分析し、血縁関係による互恵関係がすべてを決定すると喝破した。その外にいる人々はいくら裏切っても構わない。血縁関係のために裏切るのなら、たとえ他者から非難されようとも、徹底的に守る。だから、中国との関係では、法律も契約も結局役立たない。「悪しき隣人」とか「チャイナ・リスク」とはそういう意味です。このような洞察なしで、「中国は金になる」とビジネスすると、結局、大失敗することになる。

日々の生活に追われている我々には、こういう長期の見通しは分からない。それを世評をものともせずに信念と理論を持って発言する。ウケをねらって、昨日と違う発言をして平気なマスコミ知識人の対極です。こういう人を厚く遇し、その意見を尊重する。いつになったら日本は、そういう成熟した社会になるのだろうか? 小室さんの霊には、ぜひこの混迷する日本と日本人を見守っていただきたいと思う。

分野は多少違えども、「公共の哲学を読む」の講座も、「小室チルドレン」の末席に連なる身として、その遺志を継ぎたいという思いから始めました。目先の利益に惑わされず、確かな長期の見通しを得る。第2回目は10月10日。みなさんのご参加お待ちしています。



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