8/29 今日、早稲田大ロースクールの小論文試験があったようです。ずっと、事前提出だったのに、今年から試験場で書かせることにしたという。問題を見てビックリ。東大法哲学の教授井上達夫の著書『法という企て』から一節を抜き出し。パターナリズムとマターナリズムについて、要約と自分の意見を書くのだと。 ビックリというのは、あまりにも新味がないからです。あまりにもど真ん中。いつもの試験形式を止めたのなら、よほど新機軸を用意しているのかと普通は期待する。それなのに、ブロード・クェスチョン、メチャクチャ保守的。というか、ほとんど工夫の跡が見られない。一橋の問題かと思ってしまいました。 誰だ、こんなバカな問題を作ったのは? こんな試験をするために、わざわざ制度を変えたのか? 受験生を愚弄するのも、いい加減にした方がよいね。早稲田は学部レベルでも、小論文の問題の作り方がなっていない、と思っていたけど、ロースクールよ、お前もか。昔から「教師は三流」と揶揄されていたけど、これを見るとさすがにヒドイ。しっかりしろ、早稲田! まあ、新機軸なんてほとんどそんなものかもしれませんけどね。「変える変える」と大騒ぎして、実際変えたら前とまったく同じ。「大山鳴動、ネズミ一匹」。まったく困ったものだと思う。「大学改革」の底、見えたりだね。 発想がそもそも貧困。そのうち、早稲田は学部と同じで、小論文試験なんかあきらめて、「憲法」「民法」「刑法」などの司法試験のミニ版に戻るんじゃないかな? 司法試験の合格率を上げようって、しゃにむに「法律バカ」を集める戦略を取るんじゃないのかな? 何のノウハウもないから、一番保守的・権威的な方法に戻る。これじゃ東大の方がずっと革新的。まったく「私学の雄」が聞いて呆れる。 もっとも、これは日本に限らない。マイケル・サンデルの「ハーバード白熱授業」が話題なので、ちょっと見てみたら「なんじゃ、これ?」。ただの対話式=ソクラテス・メソッドじゃないですか? それをただ政治哲学の分野でやっているだけ。取り上げられている問題は周知のことばかり。電車の進路の問題なんて、もう何十年も前から論じられていた有名問題。大学受験の参考書なら、二色刷りで特筆してあるような典型問題。これを取り上げて、どこが名授業なんだ? これだけなら、ボカボでやっていることの方が、よほどソクラテス・メソッドにかなっているよ。 こういうのに注目するなんて、マス・メディアの寿命ももう尽きていると思う。情報の適切な取捨選択がもう出来ないんだね。つまらないことを面白いと強弁し、面白いところを取りあげない、もしくは無視したり気づかなかったりする。『バブル女は「死ねばいい」』という本が出たらしいけど、「マスメディアは死ねばいい」ですね。 これに限らないけど、近頃の日本の大人はだらしなさ過ぎではないか。若い人たちを叱る資格はない。グローバル化でおたおたして、あっちにふらふら、こっちにふらふら。円高になれば、政府に何とかしてくれと言い、アメリカで流行ったから日本にも入れろと言い、定見もなく、騒ぎ立てる。市場、市場とヤクザの手先のように振る舞い、周囲から木偶の坊と呼ばれ、迷惑がられ、いつもキリキリ喚いている。宮沢賢治じゃないけど、こういう人間に私はなりたくないなー… ボカボでは、10月から「法科大学院小論文 Start & Follow Up!」を行います。東大・一橋・京大など難関大学を取り上げて、そこで何が問題になっているか、徹底的に追求します。ついでに国家公務員1種の問題も取り上げ、考えるとはどういうことか、真の体験をしてもらいます。日本の若きエリート志望者よ、来たれ。マイケル・サンデルの授業の百倍は面白いはずです。乞うご期待! |
8/21 もう一ヶ月も三日坊主を更新していませんでした。「長いお休み」? いえいえ、たんに時間と余裕がなかっただけ。添削と原稿書き、著者校と息つく暇もありませんでした。ここのところ毎日終電帰り。三日坊主を書こうにも、もうその余裕がない感じ。いっぱいいっぱいというか、なんというか。本当に困ったものです。 とくに、この頃は教育について書いていたので、よけいに心身のすり切れ具合がひどい。教育と銀行は制度で喰っている商売だ、とよく言われます。「こうしろ」「ああしろ」と細かいところまで規則で縛られ、それに違反すると、すごい罪を犯したように言われる。制度を作るのはオカミだから、それに違反することは許されない。皆オカミの顔色を窺い、違反しないようにと縮こまる。 その代わり、規則を守っていさえすれば、何とか生きていける。あるいは、制度の上手なすり抜け方を知っているのがよい教師だとか。でも、本質から言うと、これって、全然「教育的」ではないですよね。教育で大事なのは、教わりたいという人がいて、教えてもいいよという人がいる、という関係を結ぶ、それだけのことです。だから、伝統的な師弟関係では、その関係を作るところが一番のストーリーになる。 たとえば、友人アレックス・カチャロフは、ロシア人なのに敬虔なチベット仏教徒という面白い人だけど、彼が仏教に帰依したきっかけは、バイカル湖のほとりに考古学の発掘調査に行ったとき、その地の偉いグルと出会ったことだったとか。 「それがなかなかお許しが出なくてさ。本当に私の弟子になりたかったら、この鋤で5haの畠を一晩で耕せ、なんていわれるんだ。もう必死で耕して、できましたって報告すると、今夜は10ha耕しとけって。もう無茶苦茶だけど、そういう無茶な試練を与えるのが、師弟の関係を結ぶときのやり方なんだよね」 試練を一つ乗り越えるごとにアレックスの「何が何でも教わりたい」「真理に到達したい」という気持ちは強くなる。そうやって、師に帰依したからには、教わるのがイヤだとか、勉強なんてタルイとかブツブツ言うことはなくなる。「気持ちを固める」というのは、師弟関係にとって結構大切なことなのです。その関係さえできれば、弟子は師の常住坐臥から勝手に学ぶ。教育の内容とか方法なんてどうでもよい。 それを考えると、日本の教育は本質がずれていると思う。教わりたいという人がいて、教えてもいいよという人がいる基本がないがしろにされて、「どのように教えるか」「教育環境をどう整えるか」「どんな設備が必要か」みたいな方法論ばっかりに注目する。こういう問題意識は、必然的に「教え方が悪い」「教えられない教師が悪い」なんて教師・教育批判の眼差しも醸成する。その結果、教える人のレベル自体が監視され、アチーブメントを評価してコントロールする仕組みが発達する。 でも、これってどう考えても「教育的」な感じがしない。むしろ「官僚的」な感じがプンプン。教師と生徒という個人的な関係がいつのまにか、エラソーな役職・地位とそのシステムを信じる大衆のような形式に変わっている。「教師らしくない」「教師としてふさわしくない」といわれる基準のほとんどそういうものだ。もっとも教育的でないことが、教育の基準として、大きな顔をしてのさばっている。 ずーっとこういう中にいると、人格がスポイルされるのも当然かもしれない。人の心を読むより、規則を読むのに長けてくる。その場のタイミングよりも、上長の指示待ちの姿勢になる。オリジナルなことを信じないで、他人の基準に合わせる。とくに、教育委員会なんて、そういう人たちばっかり、とあるベテラン教師も言っていました。 その意味で、アレックスはすごく幸福な男だ。教える/教えられるという掛け替えのない人間関係を結び、「師はいつもボクの胸の中に生きているんだ」と臆面もなく言える。こんな風に開けっぴろげに、人に対する尊敬を表せる人が、日本にどれくらいいるだろうか? もちろん、今は彼も師の年になって、忠実な弟子が何人もいる。師を慕う人だけが、真の師として慕われる。そういう循環になっているのだと思う。 今度の仕事で、そういう本質からどれだけ日本が遠いか、どれだけ無駄なことをしているか、「教育問題」を調べるにつれ、説明の文章を書くにつれ、校閲からコメントをもらうにつれ、いやというほど実感しました。……ほらね。教育を語るうちに、私だって、いつの間に「教育に文句を言う」というステレオタイプにはまりこんでしまう。このこと自体がもうどうしようもなく不幸。 評論家福田恒存は「文化と文化政策は違う」と主張しました。文化は自然に生まれるものだが、文化政策は自然から最も遠い。政策は文化に口を出すな。それがもっともよい文化政策だというのです。その伝で言えば、政策は教育に口を出すな。それがもっともよい教育政策だ。「ものごとをよくしよう」と介入しようとすればするほど、荒廃は進む。そのことに、我々はもっと気がつかなくてはならない。教育のことを語るのを止めて、教育は師と弟子の二人の関係に任せておけ。外側からいい加減な口を出すな。そういうことなのでしょうね。
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