6/20 今日は医療倫理研究会に行ってきました。その中で面白かったのは、「ホウレンソウなんかするから医療事故が起こるんだ」というK先生の発言。 別に野菜のことではありません。報告、連絡、相談の例の組織上の三点セットのこと。ビジネスなんかではうるさく言われるらしいけど、これを医療に応用しちゃいかん、と言うのです。危急のときなど、いちいち報告、連絡、相談などやっている暇はない。そんなことで上司の判断を仰いでいたら、確実にタイミングを間違える。報告、連絡、相談なんてやっている暇があるなら、現場の問題に集中しろ、ということです。 たしかに、私もそう思う。ホウレンソウなんか百害あって一利なし。組織幹部の責任回避に過ぎないと思うからです。報告、連絡、相談がなかったら、何が起こっているかわからないじゃないか、と言う人もいるでしょう。でも、だからこそ、問題が起こったときに責任を取るリーダーがいるんでしょ? 問題が起こったら、黙って責任取れよ。それがリーダーでしょ。 サッカーをご覧なさい。監督はピッチの現在の動きに対して何もできない。試合が始まる前に練習で戦略を徹底させることと、途中で選手を交代させるだけ。後は選手の動きに任せる。結果が悪かったら、いさぎよく責任を取る。リーダーの仕事は「人事を尽くして、天命を待ち、責任を取る」ですよね。たとえ部下が失敗しても自分が責任を取る。そういうものではないのか? それなのに、この頃のリーダー層は自分の地位にしがみつき、往生際が悪いから「ホウレンソウがない」なんてブーたれる。リーダーの風上にも置けないね。特に、日本の教育界はひどいらしい。ホウレンソウの地獄らしいでね。現場の先生は、授業の工夫をする時間より、教育委員会とかなんとかへの書類作りの方が大変らしい。本末転倒ね。 K先生によれば、日本の組織は全般的に野球方式だそうです。いちいち監督から命令が出て、選手はそのとおり動く。それがリーダーの役割だと思われているらしい。でも、そういう独裁的なあり方では個人の創意は活かされない。上司が能力があればいいけど、そうでなければ悲惨なことになる。組織はサッカー方式に変わらねばならない。各部署の遂行能力を信頼して任せる。各部署がその権限を適切に行使する。それが全体のアチーブメントを上げる。報告、連絡、相談なんかに集中すると、むしろ職務怠慢に陥る。 そんなことを言っていたら、スタッフのW君がある市役所の話をしてくれました。生活保護を受けている人は、病院に通うときにタクシー代が後で出るらしい。領収書を取っておいて請求する。ところが、どうもその一人がカラの領収書をもらって、水増し請求したことがわかった。ところが、領収書を受け取った係の人は、もう支払い決定をした後だった。 そこで大問題になった。支払い決定をしたのだから、水増し請求を拒否してはいけないという人と、支払い決定をした後でも、水増し請求なんて不正は認めてはいけないという人で大激論になったと言います。そもそも、こんなケースは今までなかったので、水増し請求を拒否する書式がない。さあ、どうする? 答えはわかっていますね。水増し請求を拒否すべきなのです。書式なんてなければつくればよい。これは常識なのだけど、それが激論になる、という構造が日本社会の仕組みなのです。ホントにバカバカしい。手続きを重視すると本質が見誤られやすい。ホウレンソウも同様ですね。上司への手続きを優先すると、組織は機能不全を起こす。 私は、この頃、世上話題になっていることの大部分は、この類型で納まるのではないか、と思います。社会は分業化されている。それぞれが最大の努力ができる環境を作る。それが目指すべき目標でしょう。その力の抜き方をどうするか、これから日本人が学ぶべきは、そういう自由のさじ加減ではないのかな、と思います。 |
6/16 国立新美術館にイギリスの陶芸家ルーシー・リーの展覧会を見に行きました。いつもの事ながら長谷眞砂子に誘われたのです。ルーシーはウィーンに生まれたユダヤ人。迫害を逃れてロンドンに行き、そこでコツコツと日常の器を作っていた人です。いやー、勇気づけられる展覧会でした。 私は基本的に欧米人の陶芸は好まない。前にも三日坊主で書いたけど、パリである画家の美術館に行ったとき、彼が作った皿を見て「こりゃダメだ」と思ったことがある。四角の変哲もない皿なのですが、そのうえに青いヘビがうねっている。君はいったい何をこの皿に盛るつもりなのか? 魚でも肉でも気持ち悪くて食べられないだろうに、と思いました。 瀬戸の陶芸美術館に行ったときもそうだった。西欧の陶器は釉薬をべったり塗って、物質性がほとんど感じられない。カンバスに厚塗りで絵を描いているようなものです。なぜ陶芸を表現として選んだのか、さっぱりわからない。「油絵でも描いてりゃいいじゃん!とつい思ってしまう。 今回も、ミュージアム・ショップでルーシー・リーではない陶器の写真集の洋書も置いてあったのだけど、バラバラめくってみると、どれも触手をそそられない。「作品意識」が強すぎるのです。たとえば、銀色のボウルが木ねじの形で覆われている作品など、「何を考えているんだ」と思います。「個性のはき違え」という言葉は好きじゃないけれど、西洋人の陶芸に対してだけは声を大にして言いたい。「君たち、まったくわかってないじゃないか!」 どこがおかしいかって? 土というマテリアルを無視しているから。土は金属とは違う。プラスチックでもない。どんな形にでもなるけれど、そこから出てくる形は金属やプラスチックとはどこか違ってしかるべきです。でも、彼らの形は金属やプラスチックで作ったとしても、こういう形・色になるような気がする。マテリアルと対話するのではなく、マテリアルに自分の思念・観念を押しつける。その傲慢さがたまらなくイヤなのです。 アリストテレスは、ものにはヒュレーとエイドスがあると二分しました。材料と、それが表す形ですね。材料はどんな形でも表し、形と物質とは関係ない。でも、本当にそうかな? 私の感覚から言うと、物質にはそれぞれ志向する形がある。土は土なりに、水は水なりに、火は火なりに、独特の形・雰囲気を持っている。ガストン・バシュラールという科学哲学者は、アリストテレスのいう物質は形とけっして無関係ではなく、それぞれ適合する形があると言いました。私もそれに共感する。 ルーシー・リーは陶芸におけるガストン・バシュラールみたいなところがある。作品は慎ましやかです。色はビンクとか金とか鮮やかなものもあるけど、それでもマテリアルそのものからにじみ出てきた色という感じがする。形もシンプルです。ボウルは微妙にカーブしているけど、普通のボウル。カップも普通のカップ。別に奇をてらったりしない。人柄も慎ましやかなのだろうな、と思います。でも、その形は土そのものから出てくる感じがして無理がない。 しかも、感動的なのは、彼女が年齢とともにその感覚を深め、着実に成長させていること。ウィーンの若き時代はいろいろ試しているけど、まだスタイルが決まらない。例の西欧風陶芸。一番良いのがバウハウス風のシンプルなモダンな食器だが、それでも土に外側からモダニズムという形を与えている感じ。それがロンドンに来て、当時の大御所バーナード・リーチと出会ってから、ガラッと変わってくる。 バーナード・リーチは東洋の陶器、とくに朝鮮・中国のものが好きだったらしい。ルーシー・リーはリーチから大ぶりの白い壺をもらっています。きっと、「参考にするように」と言われたのでしょう。しばらくは、それを真似して作っている。しかし、そのぼってりした厚みのあるスタイルは彼女にはなじめない。そこから、自分のスタイルの模索が始まる。この過程がすごくスリリングです。 まず、器が薄くなって東洋のコピーではなくなる。それから釉薬の工夫がはじまる。溶岩のような肌合いを工夫したり、表面を掻き取って細い線を出したり、そこにまた釉薬を塗る。象眼と言うらしい。一つ一つ丁寧に試み、自分の技法として確立していく。一連の試み=実験が終わったのが、60代半ばかな? そこからの充実がすごいですね。 とくに60代後半から80代の仕事が素晴らしい。今まで確立した技法を自由自在に扱って、大胆さと優美さが両立するような作品を大量に生み出す。その豊かさには圧倒されます。たとえば、大きなベージュ色のボウルは、中に細かい線が刻みつけられ、そこに茶色の色がかけられる。そのかけ方に濃淡があるので、線が薄くなったり濃くなったり、その変化の妙にうっとりさせられる。 あるいは、首の長い白い壺。そこにらせん模様が浮かび上がる。種類の違う土を混ぜ合わせて焼くと、こういう渦巻きのような模様が出るらしい。まるで、太古の地層から掘り出された大理石のような質感。地球の熱が土にこんな模様を浮かび上がらせたのか。いったい、どういう配合をすれば、こういう感じになるのだろう? とても不思議な感じです。 あるいは…もうやめましょう。でも、共通するのは、どれも彼女の手の形と土の感じが作品の中に両立するところ。そういえば、会場で彼女にインタビューしたBBCの映画を上映していたけど、彼女は轆轤を回しながら、その轆轤の動きをなぞるように、いつも小さく首を動かしていた。ああやって、土を感じながら、土と自分の両方に納得できる形を探っているのではないか? いずれにしても、彼女と土はいつも交信・交流し、その関係の中で作品が生まれてくる。それは大文字のCreationなんて大げさなものではない。ひそやかな対話の中に、まるで奇跡のように作品が降ってくる…。実際、彼女は「窯を開けてみるまで、自分の思惑がそのままでているかどうかわからない。思い通りになるのは半分以下ね」なんて言っている。でも、その謙虚さこそが、陶芸の面目ではないだろうか。マテリアルをねじ伏せるのではなく、マテリアルの「本来の面目」を土と共同して見つけていく。そのためには、偶然さえも味方に付ける。それが創作、あるいは美の本来の意味ではないか、と私は思います。 そういえば、シカゴで美術史を勉強したとき、指導教授の画家Tom Mappが、作品がmatureかmatureじゃないか、にこだわっていたことを思い出します。その意味がルーシー・リーの作品を見るとよく分かる。matureとは、たんに自分の強烈な個性やスタイルをアピールすることではない。むしろ、いかに慎ましやかでも、そうなる他なかったという宿命を見つけることだ。その無私の必然性が見る者を否応なしに感動させる。 彼女の場合、mature=成熟・円熟とは、60歳をはるかに過ぎてから現れる。自分の見つけた技法にとらわれず、技法と材質に自由に戯れて、そこに「自分」というスタイルを見いだす。「己の欲するところにしたがいて矩を超えず」という孔子の言葉はそういう意味ではないのか? この境地には西洋も東洋もない。東洋の真似をすれば、西欧を越えられる、そんな単純な対比ではない。そこに辿り着いたとき、彼女は東洋を手本にすればいいと信ずるバーナード・リーチのイデオロギーを完全に超えた、と思うのです。 私は、この頃、友人の幾人かが亡くなり、自分も年を取ったかなと感じ、ちょっとガックリしていたのだけど、彼女の作品を見て、自分だってまだまだやることが残っているんだ、と勇気をもらったような気分がしました。それも、大それた事をやらなくても良い。自分の出来ることを精一杯やる。その中に成熟の余地はあるものだよ、と言われている。アートの力とはこういうところにあるんですね。
|
6/11 気がつくと「三日坊主」にもう半月以上も何も書いていません。その間に首相は交代するし、ユーロは暴落するし、いろいろ事件はあったのだけど、何だか書く気がしなかった。もちろん、原稿をいくつも抱えていて忙しかったことはあります。『社会人入試の小論文』の続編は終わったけど、別の本の執筆で忙しいし、それが終わったらまた別の本も…
しかも、ファッションの流行のサイクルは短くなって、今年買った服はもう来年は着られない。高い金を出しても、来年はもう楽しめず、新しい「わくわくドキドキ」を消費するようにと駆り立てられる。もう疲れちゃうな〜、という気分になるのでは? むしろそういう駆り立てから自由になった方が、「楽しい気持ち」「ゆったりくつろいだ気分に浸れる」ことに皆は気づいたのではないだろうか? 高価なものを買っても、後でお金で焦るのがイヤなのではないのだろうか? ユニクロなどは、そういう心理と対応しているのでは? たんなる「価格の安さや機能性」だけではないのでは? 川島さん、どうですか? なぜないと言えるのか? ファストファッションでも豊かな気分を味わえるのでは? ファストファッションは豊かではないというあなたこそ、お金で買う「豊かさ」しか知らないのでは? という当然考えられる異議を受け付けず、「本当の生活の豊かさとは何か。今こそ考え直すべきだと思う」なんて、いつの間にか、自分が「本当の生活の豊かさ」の側にするっと立ってしまう。 アマゾンなどで見てみると、この人は20冊以上も本を書いてある。書評を見ると「浅い」「読む価値がない」という厳しい言葉が並んでいる。大衆の感想は正直だね。でも、もしそうだとしたら、何でこんなに沢山出せるのか? 個人の感想のレベルと、出版社のレベルの判断は違うのか? やっぱりファッション・メーカーの後押しがあるのか? だとしたら、まともに扱うだけバカバカしい。 |