2008年7月

7/29

才能と嫉妬

昨日、やっと中央・早稲田の法科大学院の出願期間が終わりました。毎年、この時期は一番つらい。「一度ステートメントを見てアドバイスをください」などのお願いが引きも切らないからです。もちろん見てはあげますけど、今年は同じ週に講演・企業研修も入ってしまったのでスタッフ総出でてんてこ舞い。皆も今週の睡眠時間は短かったかもしれない。すべて終わったのは29日になる10分前。ご苦労様。

人間の心理だから言っても詮ない事ながら、もう少し準備が早くできないものか、といつも思う。私はギリギリまで原稿を書いて失敗するのは嫌いなので、何日か前には終えて、締め切り前に時間を取って必ず書き直しをすることにしてる。そういえば、作家の村上春樹も一度も締め切りに遅れたことがないのだとか。二、三日前には書き終わって、トントンと原稿用紙の端を整えて、さわやかな気持ちで編集者を待つらしい。私はそれだけ時間を取っても結局直しが遅れてしまう。「さわやかな気持ち」で待てるのだから、村上の仕事能力はすごいと思う。

でも、昔は、私も壇一雄にあこがれていました。彼は料理だの旅行だの、日頃は遊んでばかりいて、締め切りギリギリまで書かず、前日に愛人に一気に口述筆記させたらしい。それで流行作家の位置をちゃんと保つのだから、呆れる他ない。でも私の場合は、その真似をして、締め切りギリギリまで待っても、焦るばっかりで何も良い考えは生まれない。むしろ、一度書いた後、そのどうしようもない出来の原稿を持ちつつ、自己嫌悪に陥りながら、何回も反芻する。すると、ちょっとだけ良い考えが浮かぶ。というより、そうなってほしいなと念じて書くしかないのだ。

これってやはり才能の圧倒的な差でしょうね。まあ私なんざ大した能力もないから、自分の分を知って、その中で努力・自足するしかないのでしょう。かなわない人には絶対にかなわない。能力とか才能は自覚的な努力などでもどうにもならない。あきらめるしかない。でも、あきらめられなかったら?

『アマデウス』という戯曲があります。天才に嫉妬する作曲家の物語。モーツァルトの曲を聴いて、宮廷作曲家サリエリはその凄さに驚倒される。モーツァルトの人間性は最低。好色で下品。それでも、その音楽だけは天上の響きがする。でも、自分はそんなすごい曲を作れない。悔しい。そこで、彼はモーツァルトを徹底的にいじめぬき、早く死ぬように画策する。でも、結局サリエリの曲は忘れられ、モーツァルトのライバルとしてだけ名をとどめる。歴史の皮肉…

この戯曲が妙に心を揺さぶるのは、神の仕業をめぐる戦いだからですね。「才能」とは神から与えられたもの。しかも、その神は旧約のヨブ記に出てくる神、あるいはカルバンの言う神みたい。人間の事情などに斟酌せず、自らの気まぐれで人間の処置を決める。だから、モーツァルトみたいな下劣漢に才能が宿る。それに翻弄される人間。このとき、神に逆って才能を葬ろうとする自分こそもっとも人間的ではないのか? もっとも救われるべきではないのか? こういうサリエリの怒り、分かるナー。

ただ、上には上がいる。壇一雄も太宰治の才能にはとてもかなわないとあきらめていたとか…太宰治たるや、一度物語が口をついて出ようものなら、愛人をはべらして一晩中歩き回りつつ語り続け、それを筆記させたとか…もうやめよう。書いていて、こちらが情けなくなる。

私の言いたいことはただ一つ。「才能を持つ奴はめったにいないのだから、あきらめて締め切りのはるか前に準備しておけ。自己への自信を捨てよ。その方が結局幸せになれる」ということ。要するに平凡で勤勉が一番。だから、締め切り直前にになってから「お願いですから一度見てください」なんてあまり言わないでくださいね。

さて、8/1から「大学入試 小論文夏のプチゼミ」、そして 8/3からは「法科大学院 小論文夏のセミナー」が始まります。どちらもボカボならではのスペシャル講座。「勉強がこんなに楽しいなんてビックリ!」と毎年受講者が言ってくれます。後であわてないよう、しっかり準備してください。暑い夏に負けず、がんばりましょう!


7/22

ソクラテス・メソッドの怪

早稲田の締め切りまであと一週間。課題2の題材に困っているという人が沢山いるらしいが、いろいろあると思いますよ。たとえば、裁判員制度、あるいは無戸籍や難民の問題など、法・制度と国民意識のズレはいくらでも考えられる。

制度とまでは行かないが、この頃大学院でよく言われる「ソクラテス・メソッド」というのも、その一つかも。要するに、ソクラテスとその弟子たちのように、対話・問答で学びを深めていこう、という方法。すごい流行らしく、いろいろな学校で「ソクラテス・メソッド」を実行しているとパンフレットで宣伝している。

しかし、実態はお寒いようです。ある大学院では、教授が一本マイクを持つのと別に、学生にもマイクが回ってくるらしい。それで、講義中に何か発言せよ、と強制される。それが「ソクラテス・メソッド」だって…

「僕は発言するのが嫌いなんで、困りましたよ。それに、講義中に手を挙げて質問すればソクラテス・メソッドなんでしょうか? しようもない質問しか出ないし、ホントがっかり。机の並べ方も普通の教室と同じ。教授は一段高いところにいて、それで発言しろなんて言われたって、そういう気分にならないですよね」と、あるロースクール出身者の感想。

当然だろうと思う。「ソクラテス・メソッド」とは、教師と学生がとりあえず同等の位置にいなければならない。それが、教授は一段高いところにいるのでは、対等な対話にはならないは。しかも、学生が皆教授の方を向いているのでは、空間配置からして、教授の言うことが絶対という関係を表している。

「ソクラテス・メソッド」とは、たんに学生が発言すればいいのではない。その発言が、教師を批判する強さを持ち、教師がそれに応答する中で、より高い真理が開示される、という弁証法の構造になっていなければならない。しかも、その「真理」自体も、またオープンな批判にさらされる。それがまた…という永久運動なのだ。その相互作用の真剣勝負が成り立ってこそ、「ソクラテス・メソッド」なのである。

小学校と同じで、生徒が皆先生の方を「金科玉条」のようにして向いて、私語を禁じられるという教室の配置では、「教師からの講義」になるだけで、対話なんて成り立たないのである。こういう配置をして平然としている学校は、そもそもフーコーの「権力」という概念を理解していないのだろう。

フーコーは学校の建築構造そのものが権力であり、兵舎とうり二つの構造をしていると説く。生徒/兵士たちはみな先生/上官の方を向くことを強制される。隣の生徒/兵士との私語は許されない。皆が教師の方を向いて、その命令に服する。廊下との仕切りはガラス張りになっていて、ときどき校長/部隊長が監視に来る。空間構造そのものが、人間関係と言語の構造を規定しているわけ。

そういう近代学校のシステムを壊そうというのが、「ソクラテス・メソッド」導入の意図だったはずじゃないのか? それを昔の学校の空間配置そのままじゃ「仏作って魂入れず」。理念だけで実質が伴わない。 早稲田課題2流で言えば、「制度と意識のズレ」。よい制度だって、現場でその実質が保証されるように工夫しなければ、単なるかけ声に終わる。結果、何も変えることにならない。

ある大学院の先生は、「ソクラテス・メソッドなんて言っても、それは教師がソクラテスで、学生がプラトンだから成り立ったのです。僕はソクラテスでないし、君たちもプラトンではない。だから、この方式は成り立たない」と言ったとか。

やってみて上手くいかないと、必ずこういう風に理念を批判して、足を引っ張る人が出てくる。理念自体が悪いのではない。その実現の仕方=制度設計が良くないのです。それを忘れて、理念がもともと非現実的だと言い張る。バカだね。ソクラテス・メソッドとは、歴史上ソクラテスとプラトンがたまたまやったことではない。そこで、達成されたレベルを我々も共有するための「意識的な方法」を工夫することなのです。

ボカボでは、「ソクラテス・メソッド」の原則は徹底しています。まず教壇はない。教師も学生も同じ位置。そもそも教師とは言わず、facilitator=議論を活発にするのを助ける人と呼ぶ。机はロの字型に配置し、その片隅にfacilitatorは座る。真ん中は空洞。そこを満たすのは議論のテーマです。facilitatorも学生も同等の立場で、議論を発展させる。真ん中にその議論が見えてくる。命令に応答するのではなく、議論が自由に発展する、そういう仕掛けになっているのです。

教師がソクラテスでなくても、弟子がプラトンでなくても出来る。だからメソッドなのです。それが実現できないのが、日本の高等教育のレベルだから情けない。法・制度はある理念を実現しようとして導入される場合がしばしばある。そのときに、制度設計をうまくやらないと、必ず理念を誤解して、現場で変なことをやり出す「国民」が出てくる。その意味で、法・制度とのズレなんて日常茶飯のことです。裁判員制度なども、同様の所があるのではないだろうか?

さて、本当のソクラテス・メソッドを知りたいって? ボカボの講座に来てください。対話とはどういうものか、弁証法とはどうすればいいか、実地に体験できるはずです。

7/18

早稲田課題2 その3
 あるコメディ― 低劣な法科大学院批判

法科大学院に今逆風が吹いているみたいです。日弁連が弁護士増員反対に回り、定数が削減される中で、適性試験の受験者数が毎年17%というすごい勢いで減少している。今年の適性試験の受験者数は初年度の1/3。毎年、17%のGDP減少が起こっていることを考えればいい。高度成長のちょうど逆。これってちょっと異常すぎない?

そもそも日弁連の会長だかが「日本は訴訟社会になっちゃいけない」と発言するのが異常と言えば異常です。訴訟が増えれば、弁護士は仕事が増えて良いのではないかしら? でも、彼らはこれ以上自分達の仕事の範囲が広がるのを望まないらしい。不思議ですよね。どこの世界に、市場が広がることをいやがる人々がいるのでしょうね? 

彼らは、それほど日本では訴訟が増えないから、弁護士が余ると言う。でも、今までだって、日本は法律ではなく、官僚とヤクザが支配している社会だと言われていました。紛争が起こると、とりあえずヤクザが出てきて仕切る。でなければ、官僚が数々の規制で、市場の自由な活動を縛る。これでいいわけ? これで日本は先進国と言えるわけ? 結局、弁護士も官僚とヤクザのお仲間だってことなの?

今年の早稲田の課題2では、「法・制度と国民の意識のズレ」が出題されているけど、その例として一番適当なのが、実は、この日弁連の主張だと思う。日本が法の支配に服さねばならないということが共有事項だったはずなのに、弁護士自らがそれがイヤだという。How incredible!

論理の立て方も拙劣きわまりない。たとえば、司法試験はただだったのに、ロースクールは金がかかる、これは貧乏人には不公平だという。もちろんデマ。司法試験受験には奨学金が出ないが、ロースクールの学生が申請すれば、ほとんど奨学金が出るというのはご存じか? 

司法試験だって、1年じゃ受からない。バイトなんかしていたら受からないから、受験するにはそれなりの生活資金だっているはず。その間の生活を保証するのは誰? 奨学金が出るだけましではないの? その間、親のすねをかじっていたことを忘れたの?

こういう忘恩の徒は、歴史の知識もないらしい。宮崎市定『科挙』に、科挙の試験制度は公平だと言うが、結局それだけに頼ったために中国の官僚制度は衰退した、と述べられている。何回も受験するには、莫大な資金力が必要。それの余裕がない階層は科挙を受けられない。むしろ、学校を作って、教育を公的にして、教育資金を援助した方が、いろいろな階層の人が受けられて多様性が出てくる。こんな簡単な歴史的事実も知らないで、「司法試験は安くていい。ロースクールは高い」と脳天気に言うのだから呆れる。

そもそも法・制度がくるくる変わって良いものだろうか? 法のポイントは、安定性にあるのだと思います(ここは早稲田課題2のポイントね! )。世論がどう変わろうが、「正義はこれだ」と規範を示すのが法の役割。でないと、「規範」にならない。だからこそ、「国民の意識」とのズレも生じる。

それなのに、これから法曹を増やして、法の支配にしようと決めて数年たったばっかりなのに、変えてしまえと言う。どうも、弁護士は法・制度の安定性など、どうでもでもいいと思っているらしい。でも、一度決まったことを簡単にひっくり返すようでは、法の信頼性は地に落ちると思うけどな。

そもそも、合格者数を増やしたらレベルが落ちるとも言うけど、そういう御大がどれほどのレベルなのか? 評判が悪い弁護士には自然に客は付かなくなる。数年たたないうちに、レベルが低い弁護士は生活が成り立たなくなる。そうやって、市場原理を働かせた方がシンプルだと思うけど。合格者数増に反対しているのは、たぶんレベルが低くて、競争に耐えられない古株なのだと思う。

要するに、このゴタゴタは、法の支配に服したくない、という逆理を、法の番人自体が表明した、という実に皮肉な事態だと思う。まあ、日本はいつもこうかもしれないけどね。競争が嫌いな経済人とか、教育が嫌いな教育者とか、論争が嫌いな政治家とか、独創が嫌いな芸術家とか、枚挙にいとまがない。法律が嫌いな弁護士が、法律を牛耳るー日本ってホントに不思議な国ですね。


7/16

早稲田課題2 その2

この頃、早稲田課題2の答案を多数見ているのだけど、最後のところで「皆が頑張れば、うまくいくはずだ」というような結論を書く人が多いようです。たとえば、法律はいったん決められるとなかなか変わらない。しかし、皆がもっと自覚を持って頑張れば、国民の意識とズレがなくなるはずだ、とか…

「おいおい」と思ってしまう。「いったん決められるとなかなか変わらない」のは、そんなに悪いことなのか? 朝決められた法律が夕方に国民の意識に合わせて変えられたら、それはいいことなのか? むしろ、いったん決められるとなかなか変わらないのだから、ちゃんとしたものを作らなきゃならないと気をつけるのではないか?

そもそも、そんなに速く変えることができるのなら、国家の秩序維持には役に立たないのではないか? 法律がいったん決められると国民の意識などでいちいち変わらないのは、むしろいいことではないのか? そもそも、法律の役割とは何なのか? 

などと、根本的なところから発想してみることは無駄ではないと思います。

これに限らないけど、現代では、いい/わるいを固定的に考える人が多すぎる感じがします。いい札だけを集めれば価値があると思っている。でも、トランプじゃないけれど、いい札だけを集めると、その時点でわるい札に一斉に変わるということもあるのだと思います。国民意識に沿っていつも法制度が変わるようじゃ、かえって困りはしないか?

今の市場の様子がそうでしょうね。あるときは、「これはいい」と思われたことに皆が集中する。でも、誰かが「わるい」と思ったとたんに、皆さーっと引いて、「いい」が「わるい」に一瞬に転化する。そんな風に変わるのが市場の「柔軟性」。昨日まではサブプライムローンは善、しかし今日からは悪。でも、そん基準が正義に適用されたら、不安定でしようがないと思う。

もしかしたら、皆の共有事項などゆっくり変わるぐらいがちょうどよいのかも知れない。気の早い人はそれを「遅すぎる」と言い、慎重な人は「速すぎる」と言う。互いに自分の考えこそが国民の代表的意識だと言うだろうが、さてどっちに合わせたらいいのか? それくらい考えてみたらどう? と言いたくなります。

おそらく、社会の中には速く変わった方がいい分野と、そうでもない分野が混在するはずです。法や制度が前者に入るといえるかどうか。むしろ、遅ればせに変わって、世論から遅れるぐらいがいいのかもしれない。そういうことを根本的に考えようね、というのが今回の早稲田の課題2の意図だと思います。

1そもそも法律の社会的役割は何か?
2国民の意識とはどういうものか?
3それらの分析に基づいて、「ズレ」をどう評価するか?

せめて、この三つのポイントぐらいはちゃんと考えましょう。

7/14

早稲田の課題2について

今年の早稲田法科大学院の課題2を見てみたら、実にシンプルかつ典型的な小論文問題で、ちょっと呆気にとられました。課題2は、就職試験風のものから始まって、いろいろ試行錯誤がありました。でも、こういう方向が定着するのなら対策はしやすい。小論文の学習もますます大切になってくるでしょうね。

問題
 法や制度は、さまざまな形で私たちに権利や自由を与え、あるいは私たちの日常生活を制約しています。このような役割を果たす法や制度は、民主主義社会では、国民の要請に応じて、制定され、修正され、場合によっては廃止されます。しかし、すべてが国民の考えていることと一致しているわけではなく、ときに国民の意識とずれていると指摘されることがあります。
 法や制度と国民の意識とのズレを、どのように考えますか。そのようなズレがあると思われる具体例を挙げて、これについてあなた自身の考えを1500字以内で述べてください。


もちろん、前の段落はイントロで、後の段落が問題本文。「ズレを、どのように考えますか」のところは価値判断とすればいいでしょう。たとえば、次のような3つの場合から、自分の方針を選べばいいと考えられます。

1 強い肯定−ズレがあることはいいことだ
2 弱い肯定/否定−ズレがあることは望ましくないが仕方ない
3 強い否定−ズレは容認しがたいので、なくすべきだ

「ズレがあると思われる具体例」をあげろというのですから、まったくズレがないとは主張しにくいですね。でも、一見ズレのように見える例を挙げて、実はズレではないと結論することは可能でしょう。だから、4として「そもそも(長期的には)ズレなどない」とすることもできる。これを1と組み合わせて、「むしろ、ズレと見えることはいいことだ」などと発展させてもいいかも。

もちろん、「法や制度は、民主主義社会では、国民の要請に応じて、制定され、修正され、場合によっては廃止され(る)」というところがポイントでしょうね。ここは「本来、民主主義社会では、法や制度は、国民の要請に応じて、制定され、修正され、場合によっては廃止されるはず(べき)です」と読むべきでしょう。つまり、この民主主義の理念と現実が対応していないという前提のもとで、例示を探せばいいわけです。

ただ「ズレは容認しがたいので、なくすべきだ」という3の主張は、やや性急な感じがします。法・制度は現実の後追いになることが多い。むしろ、ズレがあるから、制定・修正・廃止という動きが出てくるはずです。ズレをまったく認めないのなら、国民の意識と政府が直結することになる? これでは、むしろ全体主義政治になりかねません。

逆に国民の意識が遅れているから、法・制度を作って、ある方向に積極的に変えていこうという動きも為政者側にはあるはずです。社会工学的な考え方ですね。この場合は、国民の意識との間にズレがあるのは当然で、ズレがあることがむしろ社会を進歩させる動因になるという考えになる。

しかし、どれを選んでも書こうと思えば書ける。私が見た限り、例示を裁判員制度などで発想している人が多いようだけど、この場合はどちらかというと、後者の考え方に近くなりますよね。でも、違う例を挙げれば、別の展開になるのは当然。要は、1−4のどれかを論理と例示でサポートすればいいのです。これは、小論文の基本的な論理展開です。

でも、実際に書いたものをいくつか見ると、けっこう悲惨なものも多い。しかも、法学部出身の人の議論がひどい傾向がある。自分の意見を明確に書き、それを証拠でサポートするのではなく、つい獲得した法律知識をひけらかす方向に行ってしまうみたいです。暗記が大変なのは分かるけど、これでは現行の法学教育は、むしろ非論理性を助長していることになる。その意味で、この早稲田の問題はシンプルだけど、本質を突いているのかも知れません。


7/7

筍ざんまい

今日は七夕。時の経つのは早いですね。ところで私は、毎日、筍を食べています。え、もう旬は終わったのでは? と思う人は修行が足りない。ネマガリタケなのです。ネマガリタケとは高山に生える笹の一種。毎年、この時期になると新芽を出すらしい。それがネマガリタケノコ。この間講演に伺った高校の先生宮澤さんから沢山いただいたのです。

いつものように小論文の講演が終わってから、「じゃ駅まで車で送りますよ」とおっしゃるので、駐車場に行ったらなんと軽トラックが置いてある。ほら、田んぼの横によく止めてある奴ですよ。「これを乗りつけたら、もう止められないんです。ステレオもエアコンもついているし、言うことなしですよ」とおっしゃる。

宮澤先生は、松本郊外の小川村というところで、一家で山暮らしをしているんだそうです。こういう暮らしでは冬のために薪小屋も造らねばならないとか。いろいろ資材が要るので、軽トラックでなきゃ困る。「そんなところなら、キ、キノコも取れるんでしょうね?」とうわずって聞くと、たくさん取れるらしい。ヒラタケとかムキタケとか、その辺の倒木に普通に生えているとか。「木に生える種類が多いんですよ。山菜も豊富ですよ。明日は義父とネマガリタケを取りに行くんですよ」あー、いーなー。

私は岩手の農村で育ったし、仙台にいたときは、毎年近くの山でキノコ取りをしていた。東北大菌類研究会というサークルがあって、父がそのメンバーだった。だから、キノコとか山菜というと目がウルウルしてしまう。山暮らしも理想の生活です。「妻は呆れているけど、やっぱり男にはロマンがありますからねー」こういう古風な言い方も久しぶりに聞きました。

「来年はぜひネマガリタケ採りに連れて行ってください」と懇願して、東京に帰ってきたら、そのネマガリタケが届いていました。一杯採れたので「感謝の意味を込めて送ります」だって。感謝したいのはこちらの方。東京ではネマガリタケ高いんですよ。5本で750円。それが何十本もあるんですから狂喜乱舞。

さて、宮澤先生ご推薦のネマガリタケの煮物のレシピ。メールからそのまま引用。

1.タケノコを皮をむいて斜めに切る。下の方の節など堅いところは、庖丁を入れるときに分かるので除く。
2.直接お湯に入れ、みそ・さば缶(水煮)・醤油と昆布だし少々いれて煮る。
3.アクを取り除いてできあがり。好みに七味唐辛子をかけてもりもり食べる。

これは北信濃地方の食べ方だとか。缶詰はさば缶でなくてはダメで、さけ缶だとまずいそうです。さっそくやってみましたが、シンプルでおいしい! 味噌味ってところがカントリー風でいいですね。もう一つは皮ごとグリルの中に入れる「焼きタケノコ」。これも手軽で美味しい! マヨネーズを付けると、ちょっと歯ごたえのあるアスパラガスみたい。

そういえば、料理書の名著である『壇流クッキング』に「筍の竹林焼き」が載ってます。「掘り取った瞬間の筍でないと美味くない」とある。筍の節だけを抜いて、そこに「生醤油を注ぎ(普通の醤油でいいと思うけど、壇一雄はときどきこういう曖昧な言い方をする)大根を削って栓をする」。それを皮付きのまま、竹の葉っぱを集めたたき火に突っ込む。「待つこと小一時間。焼けたら切ってほおばる」。

どうです、美味しそうでしょ? いつか試してみたいと思っていたけど、ネマガリタケなら、家のグリルでさっさと焼ける。えぐみも少ないので、掘り取った瞬間なんて言わなくていい。皮をむきながらほおばると、長年の夢が叶った感じです。

思うんだけど、日本に生まれた幸せは、やはり季節を感じつつ「生きている」実感をかみしめることですね。欧米みたいに、天上の真実と一体化するというプラトニズムには違和感があるし、あるいは中国みたいに、この世にあるすべてのものを食べ尽くすという貪欲なバイタリティもちょっとひいてしまう。

どちらかといえば、古今集の世界がいい。春は春、夏は夏、秋は秋、それぞれに自然は美しい。その恵みを人間もお裾分けしてもらう。暖かいのも寒いのも、それぞれの味わいだと受け入れる。季節のものを食べ、季節の風景を愛でる。その時間の移ろいと自分が一体化する。そういう感じではないかな? 長野の高校の先生には自然愛好家が多いのだとか。思わず教えを請いたくなるような賢人がたくさんいるわけ。宮澤先生もそういう先輩に鍛えられて、徐々に自然派として鍛えられたようです。「竹林焼きの七賢人」なんちゃって…。

こういう伝統は昨今流行の「エコ」とかいう自然愛好とは違う。生活の中で受け継がれてきた人生の具体的態度です。やわなキーワードに踊らされず、実質的なことを一つ一つなしとげていく。情報化時代には大切な身の処し方だですね。これは、ボカボの論文指導でも心がけていることです。


7/1

カタカナの効用

昨日、企業研修をやったときの担当の方とお会いしましたら、面白い話を聞きました。近頃、中国企業の人と会う機会が多いのだけど、カタカナの使い方を分かってもらえなくて困るんだそうです。カタカナで書くのは、外来語に決まっているじゃないか、と思うかもしれないけど、そもそも外来語という観念が中国語にはないんだとか。だから、どの言葉をカタカナで書けばいいのか、相当日本語が分かっている中国人も理解できない。

ある中国系企業の日本オフィスでは、混乱の元になるので、日本語文書でのカタカナを使用禁止にしたそうです。たとえば「インターネット」など「いんたーねっと」、「グーグル」も「ぐーぐる」と書かなきゃいけないらしい。でも、これじゃ、まるで「ろんぱーるーむ」みたい。情報化社会が幼稚園になっちゃうのでは、と心配するのだけど、シンプルでいいと中国人には好評なんだそうです。

カタカナにすれば、それが日本古来のものでない外来語だということがきちんと表示される。その概念がないということは、外来のものでも、すべてが内部化されることになる。そのうち、「インターネット」=電網も中国四千年の歴史の産物ということになり、中国人の発明だと言われるのかもしれない。中華思想ってこんな些細なところにも現れているのか、と驚きました。

そういえば、英語も日本語とよく似ていて、在地の言葉とフランス語・ラテン語系統の言葉、ギリシア語などがハチャメチャに混じり、いかにも大陸端っこの吹きだまりの感じだけど、漢字やカタカナみたいに起源を簡便に表す方法を持たない。だから、ちゃんと教育を受けないと、すべて英語古来の言葉だと思ってしまう。たとえば、anthropologyがギリシア語源だなんて教えられなきゃわからないよね。

それに対して、日本の表記法は律儀に言葉の起源を表す。漢字は中国起源、ひらがなはやまとことば、カタカナは欧米起源とすぐ分かる。しかも、もともとカタカナは中国文の書き下しに使われていたのが、いつの間にか欧米起源の単語を表す役割になった。けっこう起源に神経質な言語なんですね。

そういう意味で、日本語には、自己の中に入り込んだ異質の要素をつねに表示し、「夜郎自大」「唯我独尊」「自信過剰」を防ぐシステムが組み込まれているのかもしれない。これって、けっこう「国際語」にふさわしい仕組みじゃないかな。逆に言うと、英語が「国際語」なのは、たんなるデファクト・スタンダードなだけで、「国際語」にふさわしいシステムになっているからではない。英語もアルファベットで統一するのではなく、ひらがなやカタカナも取り入れたらどうかな?

ところで、漢字を読むときには、我々はいちいち音なんかイメージしていない。これも欧米人にいうと驚く。彼らは、文字を見てもどうしても音に還元してしまうらしい。ということは、昔、新聞などを読むときに音読する老人とかいたけど、それに近いのか? かつて、デリダはさかんに「音声言語中心主義」を批判していて、読んでいて面食らったけど、欧米人がこういうデリダの主張にぐっと来るのは、漢字という便利なメデイアを併用していないからではないのか? 

私も、この頃英語を読むのが速くなって、字を所々拾っただけで読めるようになってうれしい、と思っていたけど、もしかするとそれは日本語的英語の読み方、あるいは漢字的な英語把握にすぎず、英語の正しい読み方はブツブツ声に出して読む老人を理想とすべきかもしれないのです。うーむ、これだと、ずいぶん英語のイメージが変わるナー。

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