日本語力を磨くこと・間違った言説を見抜くこと 適性試験セミナー開催まで後一週間。どうしようかな? と思っている皆さん! まだ受け付けていますよ。3回の土日だけで適性試験のコツが分かるお得な講座です。不安を覚えている方はとにかく受講しましょう! フレッシュな理論派講師と百戦錬磨の校長があなたをテッテイテキに鍛えんものとお待ちしています。 さて、その準備の合間にVOCABOWでは毎年恒例の『論文試験頻出テーマのまとめ方』の改訂作業が急ピッチで進んでいます。今、最後の作業をしているので、書店に新年度版が並ぶのは、3月末から4月初めみたい。今年も、「論文試験対策の決定版」という評判を維持するように、気を入れて書いています。乞うご期待! この本は、論文試験が9月頃あるので、初めは5〜8月の時期に限定の商品だったのですが、意外にそうでもないみたいで、今の時期になってもじわじわと売れています。そのためか、毎年、印刷した分の96%は売れてしまうという驚異の売り上げ率なのです。試験の直前にあわてて購入するという行動パターンではなくなっている。きっと受験生の皆さんがまじめになったのでしょうね。 これに限らず、近頃の若者は「ジコチュー」だとか、「覇気がない」とか評判が悪いわりには、礼儀正しくて文化的にも洗練されているし、思慮深いし、先のことも考える。むしろ、そういうことに文句を付ける大人の方こそ上品とは言いかねる行動が多い、というのが私の実感です。 そりゃそうだよね。「衣食足りて礼節を知る」とよく言います。豊かになって性格が悪くなる、ということは、例外としてはないわけではないけれど、マクロ的には少なくなる。普通の神経を持っていれば、余裕が出来る分、周囲への配慮が出来る。反対に、余裕がなければ、自分のことしか考えられない。 そうしたら、幼少時に豊かで愛情を受けて育った世代と、貧しくて放ったらかしで闘争しながらサバイバルしてきた世代では、どっちが隣人としてつきあいやすいか? 考えなくても分かる。この頃「下流社会」なんて言われるけど、それで言ったら高齢者なんて、国民全体が下層階級だった時代に育ったようなものです。私は中年だから、国民が中の下だった頃の育ちかな。 そのことと関係あるのかも知れないけど、最近は70代の高齢者の犯罪が激増している。しかも、この人々が働き盛りだったときは30-40代の自殺率が高く、青少年だった55年〜60年は凶悪犯罪が極端に多かった。つまり、通説とは逆に、今の高齢者たちはけっこう命を軽視する傾向が強い。そういう人々がおとなしい若者を「危険だ」と言って批判をするのだから、世の中面白いですね。 実態と言説のずれという事態はこうやって起こる。誰がその言説を発することができるのか? が重要になるのです。つまり、言説の成立構造の中に「権力関係」が含まれる。言論とはイデオロギーであり、政治である、というわけです。これを発見したのは誰か? もちろんマルクスであり、最近ではフェミニズムの思想家たちですね。前者は労働者が、後者は女性が「能力が低い」と言われること自体が、権力を握っている資本家・男性に都合のいい言説になっていることを暴き出した。その言説の裏で、権力者は安心してジコチューしていたわけです。 子供や若者も同じかも知れませんね。教育される対象となるばかりで、自ら言論の主体になれない。だから、言論を発する立場にある大人たちから一方的に規定され、批判され、分析され、対策を立てられるだけになる。最近の「教育」に対する大人の熱中ぶりは、その意味で自分の都合の悪い部分を偽装しているという面が強い。子供をあれこれいじるのではなく、我が身を振りかえれ、と言いたくなるのです。 それを考えると、小論文というのは結構やりがいのある仕事です。マルクスやフェミニストたちと同様に、自己の表現媒体を持たない人々=子供たち・若者たちに表現メディアを与える仕事だからです。対抗メディアとして、大人の偽装を暴き、自己反省させる武器を与えるわけです。もちろん、その武器は教えた私に対しても向けられる。自分の教えた生徒から批判される、としたら教師冥利に尽きますね。 メディアとは、インターネットや新聞・雑誌だけではない。そもそも、そういう媒体に乗せて、他人を説得して理解してもらう道具を身につけることです。前にリービ英雄が「日本社会は外国人を差別するけど、日本語を身につければ差別しない」と書いていたように、大人と同等以上のレベルの文章を書けば、言論では差別をされない。差別したら、それはすぐ不当な差別だと分かる。 うーむ、VOCABOWから、そういう「恐るべき子供たち/若者たち」が出てくると良いのだけどな。受講生の方、頑張ってくださいね。もちろん、今まで全体のムードに流され、自前の声を持ちにくかった大人の人も、課題は同様ですよ。頑張りましょう。 |
2月15日 モラルとルールの間―「グレーゾーン」の怪 ライブドア問題では、新聞で「グレーゾーン」という言い方が盛んにされている。規制緩和以来、「商法が何度も改正され、法解釈のグレーゾーン」が増えた。「これまで『グレーのものは白じゃない』と躊躇していた商行為を『グレーのものは黒じゃない』と考えた」のがライブドアだった、ということらしい。一方で、池田晶子というエッセイストが、ホリエモンは「法に触れなければ何をやっても良い」という現代の風潮を代表していると批判し、「自分は善いと思うことをやっている。それが結果的に法を守ることにつながる」ようでなければいけないという批判を書いていた。 モラルとルールの区別 社会問題が出てくると必ずこういうパターンの報道や主張が出てくる。でも、こういう認識はダメだなーと思ってしまいました。なぜなら、この考えはモラルとルールを混同しているからです。モラルとは各人が思う善悪の基準のこと、ルールとは社会全体で決めた最低基準、だからそれを犯すと罪になる。この二つは全然違うし、区別して考えなくちゃいけないのに、日本ではともするとゴチャゴチャになってしまう。 もし、自分の「善い」と思うことを他人にもやらせようとしたら、全体主義になるほかない。これをやろうとしたのが、かつてのソ連であり、ナチス・ドイツであり、クメール・ルージュであったことを忘れてはならないと思います。その結果どうなったか? 史上最悪の結果をもたらしてしまった。善の逆説ですね。だから、自分と違う「善」に対しても「寛容」であること、が原則であるべきだし、社会を特定の善で導いてはいけないのです。個人の価値観はそれぞれなのだし、それを許容しなければならない。それが「多様な社会」というものでしょう。 ホリエモンに対して、こういう見方が出てくるのは、若い世代の間で一定の支持があるからでしょう。たとえば、同じ新聞に若い世代の感想として「堀江前社長が既得権益や古い慣習の壁にぶつかる姿が、自分とだぶって見える」という記述があった。旧体制に挑戦したことは喝采を送るけれど、その手段が悪いということか… この仕組みが日本ではうまく働いていないと思う。日本社会はcreativityを重視していない。儲けるのは流通担当ばかりだ。典型例が、青色ダイオードの裁判でしょう。個人の創意工夫に対して十分に報いていない。あの発明で会社は何十億も儲けたのに、その利益を発明者に還元しない。これほど極端な例でなくても、日本では全般的にアーティストや企画者の地位が低く見られているようです。数値化できないからといって、その対価が無視される傾向がある。最初に企画・実現した人より、それを流通に乗せた人や組織が儲かる仕組みになっている。 |
2月12日 言葉の力はどこにあるか 文部省が「ゆとり教育」をやめて、「言葉の力」を基本方針にするのだそうです。日本語を重視して、国語では古典の音読や要約力、数学ではグラフやデータから仮説を考える、あるいは音楽や絵の感動を言葉にするのだとか…。 ある先生に言ったら「新しい方針を出さないと新任の官僚が困るからだろ」とせせら笑っていましたが、私はそういう見方には賛成できない。大人になると何でも人間関係で説明しがちだが、マクロ的にはかえって不正確になる。悪くすると「陰謀史観」になって、金持ちのユダヤ人が実際は国際政治を動かしているとか、フリーメーソンが世界を破壊しようとしていると言い出す。なんとオーバーなこと。 大きく物事が動くときは、その水面下にたくさんの小さな出来事が隠れており、それが動いたことが結果となって見える。だから、それなりに必然性がある。その点で言えば、「言葉の力」という方針は基本的に良いことだ。「言葉の衰頽」という、ずっと現場では言われてきたことがやっと取り上げられたという感じ。久しぶりにまっとうな言葉を聞いたという思いです。 ただし、情けないのは「具体策はこれから」というところ。私が危惧しているのは、早く具体策を提示しないと、また「国語屋」という蛮族が出てくるのではないかということです。なにしろ、この族は、「国語力」とは、漢字を書けるか、敬語を使えるか、若者言葉は日本語として正しいか、など些細な詮索にしか関心がない。こういう輩が口を挟むと、また変な方向に行ってしまう。 たとえば、『問題な日本語』という本では「コーヒーの方をお持ちしました」という表現が正しいかどうか、を延々と議論する。私もこの言い方は好きじゃないけど、新しい表現など皆が使えば定着する。たとえば、この本で誤用ではないとしている「全然おいしい」も30年前には誤用とされていた。表現なんて結局は多数決で決まる。大人は、若者言葉などについてグタグタ言わないで、放っておきなさい! そんなことより大人が子供に教えなきゃならないのは、他人の言ったことを正確に理解すること、物事を整理して順序立てて把握すること、好きなものや良いなと思ったことを他人に伝えられること、たくさんの中から重要な情報・データを選び出すこと、反対意見に対してもひるまず反論できること、などという能力です。「私は…が好きです」「なぜ?」「だって好きなんだもん、放っておいてくれ」。これではコミュニケーションにならず、多種多様な人間がひしめくグローバル化の中で引きこもるしかない。 グローバル化というと、英語とすぐ考えるけど、これも大きな間違い! 英会話学校でやっている訓練法は、アメリカ人の言うことを「本物の英語」としてオウム返しに繰り返すことだけ。これではアメリカ人の言うなりの日本」が量産されるだけです。英会話学校の講師が、いかにこういう自称「英語が得意な日本人」を陰で悪口言っているか、知っていますか? 国連のスタッフになるのでないのなら、英語がべらべら出来なくてもよいのです。大切なのは、相手を説得できる能力と材料を持つことです。問題を正確に把握し、明確に主張し、説得的な理由を提示し、それを具体的例示・データで補強する。つまり、論理力と情報力の二つが必須。こういう風に自分の考えが整理できれば、通訳もしやすい。それを構造も論理もない滅茶苦茶な日本語をしゃべるから、通訳が困ってしまう。 こういう能力をどうやって身につけるか? 断言しちゃいますけど、VOCABOWのHPを見ればよい。『小論術ベーシック1&2コース講義』に全部書いてあります。本なら『なるほど小論文講義10』と『社会人入試の小論文』です。要約の仕方から始まって、明確な主張のしかた、説得的な論理と例示、さらには絵や写真などのヴィジュアル・データの言語化まで、ほとんど文部省の「言葉の力」の具体的方法を4年も前に示してある。つまり、VOCABOWの創設コンセプトが「言葉の力」のメソッドそのものなのです。だから、これに基づいて指導を受ければ文部省の言う「学力」なんて簡単についてしまう。いかにVOCABOWが時代の先を行っているか、明らかです。 私が国語審議会の委員だったら、すぐさま全国の学校向けのカリキュラムを出してあげるのだけど、でも「委員になってくれ」とは言っては来ないだろうな。むしろ、「日本語の美しさ」とか「正しい表現のあり方」「魂に響く話し方」など、訳の分からないことを言い出す神秘家たちが、またぞろ出てきて妙な議論をするのだろう。何か問題が発生すると、こういう先生方が必ず混乱させてしまう、というのが日本の常道です。 昔、壇一雄という作家は『壇流クッキング』という名著の中で、梅干しの作り方について、こういうことを書いています。 「…何だか、むずかしい、七めんどうくさい、神々しい、神懸かりでなくっちゃとてもできっこない、というようなことを勿体ぶって申し述べる先生方のいうことを、一切聞くな。壇のいうことを聞け。 梅干しだって、ラッキョウだって、塩に漬ければ、それで出来上がる。嘘じゃない。塩に漬けるだけだ。勿体ぶったことは何もない。ガラス瓶を一つきばって、そこの中に漬け込み、床の間に置き、その出来上がり…を毎日チラチラと生花のつもりで眺めて見るのは、愉快なことではないか。…善は急げ。」 私は、料理を自分で作り出した頃、この言葉にどのくらい勇気づけられたか分からない。梅干しもラッキョウも、それどころかトンポーロ(豚の角煮)もブイヤベーズもローストビーフも、彼の指南するようにやったら皆出来た。シンプルな基本さえ踏んでいたら、少しぐらいしょっぱかろうが味が薄かろうが、とにかく作れて人にも自慢できる。それに何より楽しい。ちょっと失敗しても、それが次への励みになる。今では、私はたいていの料理なら自分で作れるという腕前になっている。 ところが、このようにある知人に言ったら、彼は「壇一雄の言うことは荒っぽすぎていかん」と言って、某作家の食物エッセイを勧めてくれた。読んでみたら「この塩辛には、海そのものの味がする」などと情緒たっぷりに書いてある。心底腹が立ちました。「海そのもの」のどこが微妙なのか? ただ、この作家が「自分が美味いものを食った」と読者にひけらかしているだけだ。しかも、これは戦中だか戦後だかに新潟からわざわざ送ってもらったものだとか。日本全体が食べ物がなくて苦労しているときに、この筆者はそういう特権を享受していたらしい。それを「微妙な表現」とありがたがる人間も、権威におもねる者にすぎない。そんな美文を弄するより、たまたま新鮮な烏賊が手に入ったときにおいしい塩辛をどうやって作るかを書いた方が、どんなに社会全体を幸せにすることか… 食べ物と同じように、言葉も日々自分で作って自分で使わなければならないものです。「何だか、むずかしい、七めんどうくさい、神々しい、神懸かりでなくっちゃとてもできっこない、というようなことを勿体ぶって申し述べる先生方」のことを聞いてはいけません。そういう人々は、日本語という誰でも使えるはずの用具を、適当なことを言って自分たちだけで独占しようとしている権威主義者たちです。簡単でシンプルな方法、それさえ分かれば後は多少間違いながらも、自分で工夫できる、そんな方法が必要なのです。神秘家のいうことを聞くな。吉岡のいうことを聞け! VOCABOWに来たれ! つい興奮して、今回はちょっとだけゴーマンかましてしまいました。読者の皆さん、許していただけますよね |
2月7日 渋谷のイメージフォーラムで''No Direction Home''を見ました。これは、ボブ・ディランの記録映画。長谷眞砂子に勧められました。現在の彼のインタビューをバックに、歌を志した1959年からツアー活動を停止する66年までの軌跡を追っています。監督は''Taxi Driver''のマーティン・スコセッシ。 いい映画でしたね。実を言うと、私はボブ・ディランってよく分からなかったのです。友人に熱狂的ファンはいたけど、歌い方に強い癖があって、どれを聞いても同じ感じがしてしまう。ちょっとひどい連想で言うと、演歌歌手の五木ひろしが毎年同じ歌を歌っている気がするようなもの。アメリカのPopだったらロックンロールの方がノリが良いよな、とずっと思っていた。ところが、この映画を見ると、彼の歌がいいと心底感じられるのです。 その第一の原因は、映画だから字幕がついていること、第二に歌われた時代背景が分かることです。多少自分の英語力が上がったこともあって、ボブ・ディランの歌の魅力が言葉の喚起するイメージにあることがよく分かる。もちろん詩人アレン・ギンズバーグが言っていたように、息づかいがシャーマンみたい、とかいう要素はあるのだろうけど、イタコが青森弁でしゃべってもぴんと来ないように、私には分からない。ところが、意味が分かるとたしかに息づかいも分かる。芝居の台詞と一緒で意味と息とが一緒になってそのメッセージの力強さ、面白さが伝わってくるのです。ボブ・ディランはいまいち日本でポピュラーではなかったとピーター・バラカンが書いてるけど、その原因は英語力不足にあるのかも知れない。 でも、もしそうだとすると、ディランが好きだったという友人たちのことが、ますます分からなくなる。彼らの英語力なんて当時の私と大差なかったはずです。歌詞を聞いて理解できたとは思えない。もちろん日本にも感覚の優れた人はいただろうし、英語がうまい人もいただろう。あるいは、そういう人がリーダーのグループもあっただろう。そういう場合は、言葉の理解があやふやでも雰囲気は伝わるかも知れない。しかし、当時の私の周囲にはそんな恵まれた環境はなかった。片言を話したり聞いたりするだけの貧しい英語環境。だとしたら、私の友人たちは何を感じていたのか? だって、歌を取り巻く状況も当時の日本とはずいぶん開きがあるもの。感じることもかなり違うはずだ。たとえば、Hard Rainという歌詞は、冷戦で今にも最終戦争が始まる、という当時の危機意識と深く結びき、どうしても原爆投下後の「黒い雨」の象徴として受け取られる。きっと、歌詞は切りつめられた言葉のやりとりなので、歌い手と聴衆の間で自然に社会的な意味が醸成されるのだと思う。その当時のニュース映像と歌を並べると、彼の歌の何が聴衆に伝わったのかがよく分かる。 しかも、その時代は、アメリカ社会が希望と幻滅の間で大きく揺れたとき。公民権運動、ベトナム反戦運動など。ボブ・ディランはマルティン・ルーサー・キングのI have a dream! の伝説的な演説が行われた集会でも歌っている。政治的指導者たちの言葉も熱を帯びる。とくに、私が好きなのはマルコムXです。人を鼓舞するというのか、熱狂させるというのか、魂を揺さぶるというのか、とにかく何かが激しく変化しているし、自分たちがその変化の真の主体だと確信させる力に満ちている。そこにボブ・ディランの歌もある。歌はマルコムXやキング牧師の演説と同じレベルなのだ。 それと比べると、日本はどうか? 59〜66年頃というと、学生運動が盛んに行われていたときでした。60年安保があり、その後の学生活動の盛り上がりもあったけど、結局は60年代は経済成長だけで終わってしまった。正義・平等・変革などというメッセージが一般人を捉える力は弱かったと思うのです。当然のことながら、政治的指導者たちの言葉にも力がない。ヴィジョンを持って人々を引っ張るのではなく、ずるずると現実を追認するだけ。理念も何もあったものではない。当然、言葉は貧しくなる。思い出すのは、なんだか弱々しい歌ばかり。「昭和枯れススキ」とか。ちょっと時代はずれるけどさ… これでは、一般人である私にボブ・ディランの歌が分からなかったとしても無理はないよね。歌が生まれる状況が全然違うし、それを支える人々の意識や生活も共有できない。アクティヴに現場が関わっているわけではないから、レコードで聞いたよそよそしい情報に過ぎず、感情が揺さぶられない。だから歌として成立しない。むしろ、ボブ・ディランの歌は、アメリカを理解できる能力を持つ少数の人々だけが独占する特権的なアイテムとして捉えられる。好きだった人は感覚的で「カッコよい人々」で、それが「階級」差別の役割を果たし、一般人が彼らを仰ぎみたり嫉妬したりしていた。これでは、アメリカでのボブ・ディランの意味と全然違う、というのは、私のひがみにすぎないのだろうけど…。 ただ、歌の生まれ出る場所は違うのだけど、その後の扱われ方は、アメリカと日本で似ている。ボブ・ディランが有名になるにつれ、メディアが彼を追っかけ出す。すると、妙なことになる。典型的なのはインタビュー。「あなたの歌の歌詞の意味(意図)は何か?」と延々と質問される。解説されなきゃ分からない大衆という存在が出てくるわけです。しかも、そういう愚かな人々の方が圧倒的に多いし、経済的な意味も大きい。しようがないから、いちいち意味づけしてやる。しかし、自分から分かろうとしない人々は、やっぱり何も感じていないのです。 その証拠に、彼がポピュラーになればなるほど、質問もバカなものになる。挙げ句の果てには、彼の歌を聴いたこともないインタビュアーが「社会現象」という切り口で意味づけようとする。プロテスト・ソング、トピカル・ソングなどという切り口はそれですよね。本当にBullshit! という感じ。でも、これって日本の芸能を取り巻く状態そのものじゃないかな? 肝心の歌が共有されるのではなく、それをダシにして勝手にお祭りとして盛り上がり、飽きるとまた次に移る。 ボブ・ディランはそういうインタビュアーにうんざりとした表情で答える。ときには反問したり、はぐらかしたり、突っ込んだり、答え方にバラエティがあって、とても面白い。公式的な発言に終始する日本のタレントとは大違いです。相手に利用されないように自分を表現しようと、さまざまな手段を使う。ちょっと痛々しいくらいです。しかし、それがまた「聴衆をバカにしている」などと悪意に報道される。こういう状態を見ると、メディア産業が物事を歪め、ぶちこわし、嘲弄しようとして待ちかまえているのがよく分かる。彼がツアー活動を8年間にわたって休むのも、こういうマスコミとの対応がいやになった、というのが正直なところではないか。 日本のマスコミも同じですね。すぐれた能力がある人間を、自分たちのような愚かな人間の仲間に引きずり落としたがる。たとえば、サッカーの中田みたいに自主性がある人間を悪意を持って描く。一方で、野球の松井みたいにファンサービスに長けた人間を好意的に描く。しかも、自分たちが個人を有名にしてやっているという集団的思考があるから、やたらと自己中心的かつ攻撃的なのです。こういう野獣たちに、自分のウィットで何とか立ち向かおうとしているボブ・ディランは、いっそけなげですらある。でも、やっぱり疲れちゃうんだよね。 メディア社会の中でsurviveしていくためにはどうするか。大衆から引きこもらなければ、自分を維持できないのです。映画も唐突に終わります。「ヨーロッパ・ツアーから帰った後、ボブ・ディランはバイク事故をおこした」という字幕が出る。「アラビアのロレンス」もそうだったけど、バイク事故は「精神的自殺」の象徴。もうさすがに限界だったのでしょう。最後にまた字幕「その年、ボブ・ディランははツアーを停止した。彼はその後も歌を作り続けたが、ツアーを再開したのは8年後だった」。この営々とした努力、泣かせると思いませんか? こういう「引きこもり」がメディアという怪物に飲み込まれない基礎として必要なのでしょうね。 でも、ひるがえって日本の歌手の場合はこんな強い態度がとれるか? たぶん取れないよね。メディアと切れても、アーティストで有り続けられるか? たぶん自信を失う。失業によって自信が破壊されるのと同じ原理です。つまり、日本ではポップ・アーティストは不動産屋とか株屋などという一般的職業と同じで、お金や社会的地位を確保するための手段なのです。ボブ・ディランのような自己意識を持たない限り、日本のポップミュージシャンはアーティストとは呼べない。一応みんなはそう呼ぶけれど、本当の意味はサラリーマンということでしょうね。 |