2004年6月
6月28日
適性試験、ご苦労様でした! 法科大学院志望の皆さん、適性試験ご苦労さまでした。出来はいかがでしたか? 私どもvocabowの数理系スタッフもどんなもんかと昨日受験してきました。「ま、普通ですよ、普通!」というのが彼の感想。去年とそうレベルに変わりはなかったみたいですね。近日中に彼の体験談をHPに載せるつもりですので、お楽しみに! 解説も、そのうち書きます。すぐさま載せられないのは、彼がオクスフォード大学留学準備中のため、私も書き下ろしの本二冊の締め切り間近なため。しばしお待ち下さい。 さて適性試験が終わったら、今度は志望理由書・自己評価書さらには小論文、と矢継ぎ早に課題が皆さんに積み重なってくる。くじけないで一つ一つクリアしましょうね。vocabowでも全力を傾けて応援します。 そういえば、志望理由書・自己評価書の添削に強力な助っ人が現れました。ムッシュ・カワモトです。東大法学部出身国連スタッフOBパリ在住5年ヨット歴15年という国際派知識人かつ船乗り。すごい経歴でしょう。世の中にはこういう人もいるんですね。文章のセンスもぴかいちです。 私と一緒に添削を担当しますので、これまでよりも処理速度が飛躍的にアップします。早稲田大法科大学院など締め切りが早いものにも、ご要望に応じて短期間で十分添削回数を確保できると思います。志望理由書の書き方などに不安がある人は、ぜひvocabowまでお問い合わせ下さい。 |
6月15日 朝日新聞でノンフィクション・ライターの沢木耕太郎が映画評論を時々書いている。彼の趣味と私の趣味が合わないせいか、いつも書いているものに違和感を感じてしまうのだが、今回ソフィア・コッポラの「Lost In Translation」の批評を読んで、「ああ、やはり私は、この人とは一生縁がないな」と思ったのである。 「Lost In Translation」はシンプルでいい映画だった。カメラマンの夫の取材についてきた女の子が、東京の豪華ホテルで中年の映画俳優と出会う、というだけの話だ。双方とも周囲に疎外感を感じて、夜眠れない。バーで出会った二人で酒を飲み、夜遊びをする。周囲の人々はビジネス中心で妙に浮ついた関係を結んでいる。俳優の出演するCM収録の不条理な場面、映画俳優の妻との遠距離電話の会話など、ゾッとするほど表層的で、しかもけたたましい。 そんな周囲としっくり行かない二人が、何となく出会い、ほんの少し自分の内面を打ち明ける。二人で酒を飲んだり、ベッドでヴィデオを身ながら、少しだけ人生についての不安を共有する。その「ほんの少し」の節度がいい。情熱に駆られたり、ラヴ・ストーリーというステレオタイプに陥ったりする、ほんの少し前で踏みとどまる。したがって、ラヴ・シーンは全くない。「史上最大の愛の物語―トロイ」なんて陳腐な文句と正反対の静かで微妙な世界だ。 この「踏みとどまり方」が、この映画のポイントだろうと思う。「恋愛」という流通可能な「明白」な形を取る前の微妙な感情。「ああ、この人なら何かを分かってくれる」という微かな直感。日本というエキゾチックな土地、いつもの社会関係から離れたエア・ポケットのような空間で、そのほのかな感覚だけが二人を結びつける。 女主人公が京都に旅行に行った夜、映画俳優はバーの歌手と痛飲し、Love Affairになってしまう。朝目覚めると、シャンパンの瓶が枕元に転がり、女はバスルームで歌を歌っている。絵に描いたようなシーン。その時の男の「また、やってしまった」という表情が印象的だ。どうあがいても、また同じように陳腐で空虚なLove Affairに陥る敗北感。それと対照的に、何の肉体的関係もないのだけど、女主人公とは心が何となく通じ合う。はっきりした形がつかないのだけど、その形がつかないあり方に真実の感情が見える。 私の好きだったシーンはいくつもあるが、とくに映画俳優がアメリカに帰るというので車で空港に向かう途中、彼女の後ろ姿を雑踏の中に入っていく所を見つけるところ。その姿が異様にさびしい。まるで修行僧のように、たった一人で東京の雑踏に吸い込まれていく。その後ろ姿の完璧な孤独感。男はそんな彼女を呼び止め、抱き寄せ、その耳に聞き取れない言葉をささやく。女はそれを聞いて涙を流す。何で泣いたのか、観客には分からない。でも、ここでは「聞き取れない」ということが大切なのだと思う。二人の間で完結したプライヴェートな瞬間。それは、社会で簡単に流通する言葉では言い表せない。 哲学者のウィトゲンシュタインは「私的言語Private Languageは存在しない」と言っている。我々の内面は、実は社会によつて根底から浸食されているのだ。もう声高に主張できる「私」なんてどこにもない。もし、「自分」があるとしたら、それは「現実」に上手く適合できない違和感にしかない。 その言い方を借りるなら、ここは二人の間でかろうじて「私的言語」が成立したシーンかもしれない。内容は二人以外には分からない。でも、二人の間では理解でき、それでOK。どこでもない場所で出会った何とも言えない感じ。それを外側からどんなに想像しようとしても、言葉には出来ない。想像しようとしても、観客の使う言語はステレオタイプを運命づけられた「社会言語」にすぎないからだ。 そのシーンの後、始めて東京の風景は灰色の塊やネオンのギラギラする闇の空間ではなくなり、ビルの谷間から広い空間が姿を現す。太陽の光が差し、雲も夕焼けに染まり、遠近感が出てくる。場所がはじめて親近感を持って出現する。ホッとした感覚。救われた感覚がわき起こる。見事なエンディングだと思う。 ところが沢木は、この映画の主人公たちに「自分たちだけが正しいと感じて、他人を理解しようとしない傲慢さ」を感じてしまうから、嫌だという。何を言っているのだろうか、私には全く理解できない。主人公たちは誰も非難していない、ただホテルの部屋に籠もっているだけだ。どこにも出口のない状態、自分を捜しあぐねている状態、それを彼は「傲慢」だと罵る。それは、まるで「引きこもり」は外界を知らないから悪だと決めつける人々の口調にそっくりだ。 おそらく彼は「日本人」たちの様子が戯画化されていることに腹を立てたのだろうと思う。「Tension! Tension!」という珍妙な要求をするCM演出家、名刺と作り笑いばかりが飛び交うビジネスの現場、カメラマンのおかしな思いこみのイメージ。それらを見て、英語が出来ない自分が侮辱されたように感じたのだろう。しかし、私に言わせれば、こんな連中はビジネスの現場では日常茶飯事だし、私が日本社会に感じている違和感とそっくりだ。 私には日本のビジネスマンたちと自分が同じ種類の人間だという感覚がない。名刺もやむなく作ってはいるが、しょっちゅう忘れてしまう。日本人だから一体感を無条件で感じてしまう、なんてことはないのだ。むしろ、外国人でも興味が同じならば話もできるし、会ってても楽しい。もちろん外国語だから、凝ったしゃべり方は出来ない。しかし、喋る内容があるなら、また向こうが興味を持ってくれるなら、英語が下手でも何とかなるものだ。それに、向こうが英米人で無い場合は、あっちだってそんなしゃべり方は出来ないから平等だ。 周りの社会のおかしなやり方には違和感を持つ日本人だっている筈なのに、沢木はそれをアメリカ人の日本社会を知らないせいだと訳知り顔で批判する。しかし、私はこんな社会などに積極的に属したくはないし、おめおめとその一員になりたくはない。たしかに「日本人」は一つの人間のくくり方であるが、それが唯一ではない。「旅人」と「定住者」、というくくりもあるのだ。もし「旅人」の立場になれば、「Lost In Translation」の主人公たちの心情に感情移入できるはずだ。 それが出来ないところを見ると、旅についてのノンフィクションで知られるわりには、沢木は「旅人」が分からない人間なのだろう。国籍というくくり方以外は認めない心情的ファシスト。アメリカ人に対して「傲慢だ」と怒るところにプライドを見いだす。しかし、こんな不毛なプライドは止めた方がよい。妙なところに「熱く」なることで見えなくなるものは多いように思う。 |