屈折二態  松本旻・中川猛の作品から           
             
「さまざまな眼」川崎IBM市民ギャラリー 1991より
 
 平井亮一


 とっぴかもしれないが、松本旻の仕事を追っていると、ジジェクがいう圧倒的にゆきわたったサイバースペースの構造的な「力タストロフィ」を手仕事で指し示しているのではないかと思うことがある。

 かれはたとえばマスメディア上の図像、記号、伝達様式、印刷形式、もっと要素的なレヴェルでは色彩の秩序への着目をとおし作品を生んできた。それでもってなにごとか伝える、つまり意味や事がらを表象し表現しようというのではなく、むしろそうしながら視覚や認識のありようを画布の上に局面化し、それを反復するようなかたちをさしだすことにかれは徹してきた。そうしてもたらされる奇妙といえば奇妙なかたちや色彩の仕組みが、いっぽうで、たとえばマスメディアとしての印刷媒体の「カタストロフィ」に対応すると思わせもするのは、かれのそうした実践が印刷など媒体システムの疎外をとおしているからである。なによりもそれは、印刷媒体なら版の形式や色彩の秩序がからむそれぞれの条件をばらばらに解きほぐすと、それを逆手にした別のシステムを画面上に設けてそれにかたちをあたえ、結果として媒体の本来の機能を異化するような表出実践なのだ。

 そしてもうひとつ、もっと注目にあたいするのは、そうした異化の実践こそが絵画のなりたち、つまり画面とのかかわりの問題へと変容するのだとする視点をもち、実際にそれにふさわしい方法をかれが手にしていることである。一見して肩の力をぬいた色彩やかたちの平準化の反復が、視覚にかかわる日常の情報様式の還元であるとともに、しばしばたんなる図式におちいるあやうさをかかえながらも絵画つまり画面とのかかわりの総合実践の形式たりえるのは、一にかかってこの異化のありように由来している。かれはそれに楓逸で独特な形式をあたえた。ひるがえってみるに、サイバースペースでモニター上の超微細な画素もまた、松本が印刷の網目になぞらえるように画布におくひとつひとつの筆頭と相同であるとするなら、かれが続けてきた表層的な効果とのたわむれはこうして、情報様式の軽やかな異化・疎外ということで電子システムの視覚空間、そのアイロニカルな「力タストロフィ」にも通ずるのである。

**

 絵画にかぎったことではないけれど、私たちは、なにかの表現からなにごとかの指示の実践へという「パラダイム・チェンジ」を経験して久しい。とはいえ、指示としての実践ということがいわゆる「ポスト・モダニズム」状況もあってうやむやになり、げんにむしろある種の表現としての実践と連続的にとらえられているむきもある。おそらく、現代美術というくくりかたでもってすれば、ことがらの違いをはっきり認識しなくても現象について語ることはできるからである。しかしこの違いは原理と構造にかかわっている。現実にそれがわが国で歴史の上にあらわれたのは1950年代後半、「具体」グループの動き、あるいは「アンフォルメル」対応などによってである。いずれも美術をささえる観念と物質との相互作用その疎外実践であったとするなら、そこで表現の自明性があやういものになったのはいわずもがなのことである。そのかわり、絵画なら媒材としての物質と、われわれの認識活動つまり観念とのこうした乖離はいっぽうで、というより、にもかかわらずそのどちらにも関連する色彩・形のことが画然と残ることをひとびとにあらためて自覚させずにはいなかった。

 いちどこのようにイメージとしての表現、いいかえるならことがらの表象が括弧にいれられた以上、これに対抗できる営為は、観念と物質を除けば、ひっきょう、いまいった色彩・形といった還元不能の視覚的要素の確かめであり、ことがらの図示というべきなぞりなど同義反復としての指示の実践しかありえない。げんにわが国で1970年前後に一連のコンセプチュアルな営為と物体表出とが並行したのは当然であった。そしてこのような指示の実践形式が相応の意味をもちはじめたのが「現代美術」であるとするなら、むろんこれはたんなる時代区分というより構造上の変容をいっている。そのことから、いまみたような疎外を契機にしてなお美術をというのであれば、ことがらの表象に手を染めるにしても、それぞれ統合の実践においてなにがしかの屈折なしにはありえない。

 1960年代後半から松本はそうした屈折を経験し、いっぽう70年代末に活動をはじめた若い中川猛は、80年代初頭から特定要素への限定に営為の機軸をおいた。

**

 ダダ的還元を経たとき、色彩と形の要素化そして事物の表層的ななぞりは、絵画のいわば発端としておそらくある一点でつながっている。だから、アメリカで表層としての「ハイパーリアリズム」と「ミニアルアート」とがほぼ同じころにあらわれ問題になりえたのも、原理からして奇異なことではない。これはむかしふれたことだけれど、私の頭のなかでは、画面とかかわる統合の実践形式の根もとで再現的リアリズムといっぽうの要素的な還元とは、''絵画のヤヌス"をなしている。

 とはいえ、このような認識はすでに歴史的なものである。そのことを承知でいうなら、要素的な還元は自省的もしくは自己指示な営為としていちどはそこにたちかえってしまうところである。ダダ的還元の疎外を経てなおそれに対抗しうるいわばひとつのフィジカルな基底としての条件をそなえているかぎりで、これは国外で「ミニマリズム」だの「ポストミニマリズム」などと呼ばれた個別の問題にとどまりえぬ原理性をつねにともなっているといわなければならない。もとより中川猛がダダ的還元などというわけはない。とはいえかれは、絵画によるなにがしかの「イメージ」表現で「試行錯誤」していたけれど、そのうちに、絵画というような「形式」では「自分が表現したいものになかなか到達できないいう切迫感」におそわれたと80年代初頭までをふりかえっている。かれが絵画という「形式」をともあれフィジカルな「囲い」とあえて認識せざるをえなかったのは、絵画がしょせんしらじらしい物体平面への賭けである以上、それならいっそのことじかに「自分自身の体、あるいは自分の感覚の物理的な反応に対応した」場所に出ようとの要請を身内につよくおぼえたときである(新しい空間へ向けて。『アクリラート』別冊、1997)。かれがそこで採った一種の切断もまた、かれじしんがゆきあたったダダ的還元にほかならない。かれの飛躍がたんなる拡張モードヘの切りかえにすぎないかどうかもまたそのことにかかっている。

 それで80年代からかれがとったのは、身体性にかかわる空間の知覚、その三次元的分節といえるような営為であった。とはいえ、平面媒体からはなれ広い空間と知覚とのかかわりへの自由な跳躍は、そのじつそれぞれの主観的な限定においてしか局面をとりだすことができない。O.F.ボルノウがきわめて常識的にいうように「人間が空間のなかにいるその仕方は、人間をまわりからかこんでいる世界空間の規定ではなく、主体としての人間に関連づけられている志向的な空間の規定」(邦訳『人間と空間』、せりか書房)にほかならず、それも私たちには物や身体をとおしてしか具体化することができないのである。中川にとって「志向的な空間の規定」は視党的なものにとりあえず限定するにしても、その先が実際に特定できなければならない。かれはそれをいわば三次元空間の要素化においたようにみえる。空間の拡張ではなく、さきほどいった三次元空間において「つねにそこにたちかえる構造」にあえてとどまり、その「フィジカルな基底としての条件」を視党化しようというのであろう。花漠とした空間への跳躍がかえってそのような基底のたしかめへとうながしたといえるなら、これもまたすでにダダ的還元を経たことによる中川流の屈折である。かれの強いこだわりともども、かれの仕事はだから原理的な強度をもたざるをえないのである。平面媒体からの離脱がこうして逆説的にも三次元空間のもっとも要素的な問題への限定にかれの仕事をみちびいた。そして要素化による空間の規定はフィジカルな基底として、くりかえしたちかえるべき原理性をそなえているかぎり、むろんこれを「ミニマルアート」もどきなどといって片づけてしまってはならない。

 ところで、実際にはかれの空間分節が、基本的にかれがいう「形の恣意性を除くため」方形の面によって仕切られているのは、十分に留意されるぺきことである。そしてこの面のおもてからは物性にからんだ知党の現実が、空間の映りにかかわらないかぎり問題として排除されるだろう。

**

 中川は合わせ鏡の写りの反復効果に空間分節のとっかかりをみたという。写りの二重性はたとえば空間の仕切りのもたらすそれであり、ひいては方形面のかたちづくる立体の内と外であり、空間の連続と遮断であり、要するに分節の二進法へとのびてゆくだろう。それは等身大のスケールをもったり、床や壁の上の構成体であったり、そして「ユニット」の組みあわせであったりしながら、必要なら色彩や光も加えられて展開する。スケールの比は、これも「恣意性」をなるぺく排除するため、倍数律、黄金律などをもとにして相応の均衡をたもつものでなければならない。これらが身体がらみの環境空間ともなると、なかんずくユニットをつなげた場合、その内と外をめぐる観客は錯綜する知党体験に身をさらす。ゆきあたるのはたいていが方形面の仕切り・接合であり、光にみちたガラス面であり、それらの微妙なずらしであり、ここでも要素化への意志はあきらかである。しかしながらどうしても派生してしまう雑多な知覚効果が、たんに環境的なものとして拡張されてしまうことがある。その点からいえば、もっぱら外側だけからみるのと、内側にも入りこむのとでは知党、認識にかかる統合の実践ひいては経験に違いはあるはずで、そこを一体にして指し示すのがかれの仕事の要諦であろう。そのことを承知したうえで、そのような一体化を、もっぱら外だけからみる、つまり一回で視野に納まる作品にすると限定したとき、ことがらはいっきょに変容するだろう。これはすなわち媒体形式それじたいの間題でありその強度の間題である。中川の仕事はいま、そのことを特に思わせずにはいられない。だが、かれはいまそれぞれの作品を並行してつくっている。

 過去の作品になるけれど、浜松中田島海岸での設営(1987)、多摩川福生での設営(1988)などは角柱と方形の板とが複合され、それが工作上の機能をみたしてなお格子状に表面を分割し、その囲いは内部空間をかかえているといった状態で、しかもあざやかに彩色されているため、空間というより面と線との一体化の形式がはっきりしていてみごたえのあるものである。その後はしだいに方形による空間分節のほうへと純度を高くしてゆくとともに、円形という要素が加わるものの、自己指示としての還元性の度合いが強くなっていることに変わりはない。そのぶん簡潔な仕組みがより複雑な局面を示すことにもなっている。こんどの発表は、かれが身内にかかえるさまざまな屈託をいっそう遮断するかのように白無垢にしたてた箱状の囲みを、わずかずつ角度をずらせて(むろん垂直のままか角度をつけるかは重要はことだ)空間のひねりを慎重にためすかのような作品、それぞれが関連するサイズ比の大きさの方形面でもって箱状に組み、それぞれの面あわせにあたえた空隙のありようがそのまま空問を規定する二元性の構造をなしている作品など、より明確な方向を示して松本の作品に対することになろう。

**

 1960年代後半、それまでこころみてきた暗喩としてのイメージ表現、要するにことがらの表象に、松本旻はゆっくりとではあるけれどかれなりのダダ的還元をしかけはじめた。そのことは衣地の柄や商品のラベルに着目した一連の油彩画にあらわれている。その後、広く流布している記号や図柄をとりあげ、版様式や色相の違いを介入させながら基準化しそれに形式をあたえるなどの仕事で、引用による指示行為への移行を明確にした。そのうえで、風景写真の印刷をとおし製版の網目にことがらをひきもどして絵画をみなおそうとする、かれにとって画期的な仕事に満を持したようにとりかかる。1970年代初頭のことである。これらの仕事は、富士山など風景写真にからめて風景画を印刷システムの一環である"ドッドとして即物的にとらえかえし、絵画と呼ばれ画面とかかわる統合実践をそうしたシステムにまで疎外したものである。しかしここで強調したいのは、それが同時に知覚、手法、認識がからむ統合その実践形式のポジティヴな反転であることだ。それを決定的にしたのは1973年の連作「風景」からである。だからこそ、かれは風景写真を拡大されたドットとして版画に変えるばかりではなく、無数のドットを手でえがくことが風景画であるような実践をくりかえしたのである。ダダ的還元を経たかれの屈折がここにある。

 このあたらしい風景画は、70年代をとおしての徹底したくりかえしと持続によってかれの営為の根幹をなすものとなり、ドットのシステムはさまざまな素材をあつかい立体形式にまでおよぶけれど、たとえばいろいろな手法で配点した「順列」シリーズ(1978)から油彩画「並置」シリーズ(1989)などにいたるまで、いやその後もずっと絵画発生の過程を映しつづけている。

 そしてもうひとつ。その間ずっと色彩の三要素がそうしたドットのひとっひとつに関連していることだ。システムとしてはいずれもわかちがなく一体化している。もっというなら、ドットと色彩との要素的なシステムヘの限定が、画面での統合その実践形式の可能性をこうしてゆたかに照らしだしてしまうという事態がここにある。

 こういってしまうと味もそっけもなくなるけれど、それはまた予期できない知覚の現実にふれることでありその視覚化であり、どれもがシステムヘの息の長い限定によってこそふくらみたちあらわれてくるものなのである。けっして派手にはならず、それでいてどこか楽しげなかれの作品は、すでに1970年前後からダダ的還元を経てきたかれの屈折のかたちである。かれはそのような画面を、日常身辺にかかわる事物、たとえば果物、風景、季節、旅といったもので映しだそうともしている。かれのとりだした画面がどこか祖逸味をおびているとすれば、まえにふれたように印刷の網目であれコンピュータの微細な画素であれ、ドットシステムの「カタストロフィ」をかれの作業があるいはユーモアにかえてしまっているせいかもしれない。

 こんど展示される作品は、画面を9ミリの正方形で仕切りそこをえのぐで埋めてゆく、例によって根気のいる仕事である。それぞれの画面は、色相環の順序にそった二色の彩度・明度にわたる幾眉もの変化でおおわれ、二色の組みあわせの移行で画面のあいだの色合いの違いも漸層的に変わってゆく。近年の写真コラージュなどにつながる方形システムによった作品である。むろん単純に色を並べたのではなく、身辺の季節にちなんだことをきっかけにしている。これがモードとしての図式にあやうくきびすを接しながらも、べつの構造を画面にほのみせるなら、それもあの屈折のせいである。ゆめゆめこれを「ジェオメトリックアート」などといってしまってはならない。ところでこれは企画者の意図とは関係がないことだけれど、私が還元的な自己指示、それに非還元的な自己指示などと分けている事例がはからずもここにあい会することになった。